歴 史
侍にまつわる寺社を巡る
鳥取「御朱印」巡り vol.01/玄忠寺
荒木又右衛門の菩提寺・ 玄忠寺
神社仏閣を巡る人にとってはもはや必需品の御朱印帳。御坊様、神職様、宮司様に判子を頂くノートのようなもので、参拝の記念になることはもちろん、ゆかりある独特のモチーフの墨書や押印を観ることがちょっとした楽しみに。とっとり麒麟ツアーズでは、武士や刀剣にまつわる神社仏閣を巡る、という一味違った「御朱印巡り」を皆様にお届けします。
永遠のヒロイズム「仇討ち」にまつわる仏教寺院・玄忠寺
第一回は鳥取市・玄忠寺(げんちゅうじ)。高木百拙の羅漢襖絵でその名が知られるこの寺は、浄土宗の仏教寺院で、伊賀越(いがごえ)仇討「鍵屋の辻の決闘」で知られる剣豪・荒木又右衛門の菩提寺。山門をくぐり本堂に向かって左手に又右衛門の墓、右手(墓の正面)に“荒木又右衛門遺品館”が設けられています。又右衛門にまつわる品々・資料を所蔵展示する遺品館は、ひっそりと佇む寺院ながら、武勇を愛する人の隠れたスポットとして知られています。
又右衛門の人物像を映す、折れた大刀と長い脇差
鍵屋の辻で折れた刀と脇差
「鍵屋の辻の決闘」は歌舞伎の演目、演劇、映画から小説にまで幅広くモチーフに扱われる中、大衆芸能の興行競争の波にもまれ、事実とかけ離れた過剰演出がエスカレートしていきました。たとえば「36人斬り」など、かけ離れっぷりは凄いものがあります。一方で史実探求も盛んになされ、四方山で唱えられている様々な説が楽しめます。
玄忠寺の荒木又右衛門遺品館は、残された遺品に加え、例えば仇討ち後の又右衛門を迎える鳥取藩160名の護衛隊が組織された話など、仇討ち以上に気になるこぼれ話を多く扱っているのが大きな魅力のひとつです。
館内には又右衛門の人物をうかがい知ることのできる刀剣があります。展示ブースに鎮座する「法橋藤原来金道」は荒木又右衛門が仇討ちに使用し、折れたとされる大刀(だいとう)。折れたのは準備の怠りとの叱責の声も上がり、又右衛門自身その声を真摯に受けとめた後日談も存在するのですが、これを怠りではなく、逆に又右衛門の用意周到な性格を示すもの、と捉えることはできないでしょうか。というのも、どうやら又右衛門は迎える敵方・櫻井半兵衛の十字槍に備え、事前に間合いの取りやすい長い大刀を急拵えで用意していたようなのです。又右衛門は討入り前の綿密なシミュレーションによりこの大刀は最初から“折られるもの”と想定し、脇差としては長く(64.5cm)頑丈な刀を差添(さしぞえ)として所持して敵に挑んだのです。差添は手荒な扱いに耐えるための3つの目釘穴が空いており、これは試し切りの為の刀に多く見られるもの、つまり万全を期すに相応しい耐久性のある仕様だったのです。馬上の敵に対する備え、さらに槍の名手との間合いを想定する執拗な分析。大刀を常人の刀と同様に扱うほどの大きな体格がゆえに、伊賀忍者の道を閉ざしたものの、又右衛門には忍びの兵法「孫子」にも通じる「分析」を重んじ、賭けをはらない冷徹さが根付いていた。そう考えると、あながち間違いではないのかもしれません。折れやすい大刀は半兵衛との“間合い=干渉”のための刀。そうとらえれば、又右衛門がいつまでも折れた刀を手許に置き半兵衛の死を偲んだということに対し、より深い納得感が得られます。
一富士、二鷹、三なすび、は仇討ちに由来。伊賀越仇討は“なすび”
このサムライ「御朱印」巡りスタートの御年2015年は、池田忠雄(ただかつ)が岡山藩主となってちょうど400年。“仇討ち”というもの自体、首謀側が大きなハンデを背負った成し遂げ固いものであったのはもちろんのこと、荒木又右衛門が伊賀越仇討を成し遂げスターダムへ登りついたその時代は、くしくも忠雄の子・光仲誕生、忠雄の死去、そして岡山、鳥取の池田家国替えと、旗本と外様大名の狭間で波乱の生まれた時代でした。 記念すべき年に、鳥取市歴史博物館で開催された特別展「荒木又右衛門と鳥取」で、又右衛門の「伊賀越仇討」を呼び声に「赤穂浪士・忠臣蔵」「曽我兄弟の仇討ち」という日本三大仇討ちに関わる所蔵品が一堂に会し肩を並べました。ところで皆さんは、お正月の初夢に登場を願う「一富士、二鷹、三なすび」の3つのアイテムが、この日本三大仇討ちに由来するのをご存じでしたでしょうか。一、「富士」の裾野の曽我兄弟、二、浅野の紋の「鷹」の羽、三、伊賀で仇「なす」又右衛門、といった具合に各モチーフが絡んでいるのです。初夢で縁起が良いとされるもの全てが仇討ちにまつわるものだとは。「ほんとは怖いグリム童話」を読んだときの後味に似たものが残ります。武士道の国・日本では「夢(目的)を成し遂げる原動力=忠義とプライド=仇討ち」ということなのでしょうか…、真意はわかりませんが独特の感覚で縁起モノへと昇華していったのですね。
京に匹敵するかもしれない、鳥取の寺社巡り
〜 羅漢襖絵と庫裏庭園 〜
冒頭でもお伝えしましたが、鳥取の寺社にはひっそりと在りながらその境内に光る逸材を潜ませたものが多く存在します。ここ玄忠寺もまた、いわゆる「観光地」然としない日常感あふれる中にたたずみながら京都の町にある趣(拝観し心清まる伽藍や庫裏など)を有するという、鳥取の特徴的な寺社のひとつです。
本堂脇の庫裏(くり:僧侶の居住する場所)の内装は、玄関の屏風から部屋の襖まで、高木百拙・直筆の羅漢さまに埋め尽くされ、空間全体が美術作品といった装い。庫裏の奥座敷には、羅漢の大胆な筆跡と向かい合って、対照的にたおやかな蓮の葉がたわわに茂る庫裏庭園が広がり、拝観者の目を安らぎで満たしてくれます。 羅漢襖絵と庫裏庭園、そのコントラストが楽しく心地よく、日本人古来の美意識にスイッチが入るようです。「(寺の)外には京都の町家が広がっているのでは?」と錯覚してしまいます。鳥取に京の街ほどの賑わいにないのが不思議に思えて来る、とまで思える寺社が多く潜む街・鳥取の寺社巡りは、裏ガイド的名所の散策でもあるのです。
無個性集団の「羅漢」に強烈な個性を与えたユニークな羅漢襖絵
羅漢堂は厳かな寺院建築の雅な空間。その中に所狭しとひしめく羅漢さまの襖絵は、皆が豊かな表情、様々なポーズ、素敵なセリフで拝観者を迎えてくれます。羅漢さまのお言葉は相手への呼びかけもあれば独り言のようなものもあり、胸にグッと刺さるもの、刺さらないもの、人それぞれあるかと思います。そこには、どこか現代のLINEスタンプに通じるおもしろさがあります。タイムラインの吹き出しを襖に置き換えて、「つぶやき」の添えられたキャラクターを見て巡るリアル体験がここで楽しめます。例えば実際に存在するこんなお言葉。「鼻が下を向いとるで有難いぞな(有難いことだ)」さて、あなたはこのお言葉にどんなことを想像しますか?この襖絵の作者・高木百拙先生はどんなことを想いながらこの一言を生み出したのでしょうか。差し出される襖につぎつぎと驚くべきスピードで、やり直しなしの一発描き…という昭和58年の先生の制作エピソードが残されています。「自然に腕が動かされるんです」という談が示すように、その驚異的な制作行程の中で、作品は完全に作者の手から離れていったのではないでしょうか。百拙先生の身体を媒介にしてこの世に呼ばれ、玄忠寺に産み落とされた羅漢さまの「つぶやき」。だからこそ、羅漢の声としてお言葉が胸に入り込み、そして気になっていること、今の自分に大事なことに関わる一言が心に刺さるのです。シベリア抑留の、死の瀬戸際の極限の経験がご自身に影響を与えている、とご自身の経験を語る百拙先生。そんな先生だからこそ生み出せた羅漢さまの“言霊”なのではないでしょうか。
荒木又右衛門の菩提寺・ 玄忠寺の御朱印
荒木又右衛門の菩提寺、玄忠寺の御朱印は、大きく「羅漢堂」の文字が書かれます。御朱印はもともと、寺社の本尊の分身と考えられていたありがたい存在です。羅漢さまの中からあなたのお気に入りの一人を選んだなら、是非ともその一人を御朱印帳の描き文字に念じ投射して、心の中で羅漢さまを御朱印帳に封じ込めましょう。そして大切な記念としてお持ち帰り下さい。玄忠寺は中国地蔵尊巡りの番所でもあり、御朱印にはもうひとつ、地蔵尊と文字を書くものもあります。ここ玄忠寺の松の脇には祐天上人が訪れ残したとする石塔が残されています。祐天上人とは、東京の祐天寺で知られるあの高僧。その他、子宝を授ける名号のご利益など、子育てにまつわるエピソードも多い玄忠寺。それらはまた別の機会に、こことっとり麒麟ツアーズで紹介させて頂こうと思います。
玄忠寺(荒木又右衛門遺品館・羅漢堂)
- 所在地
- 〒680-0812 鳥取県鳥取市新品治町176
- 電話番号
- 0857-22-5294
- 営業時間
- 9:00~16:00
- 定休日
- 1月1日~1月3日、春分の日、8月12日~8月15日、8月20日、秋分の日