本町四丁目の稲荷大明神社は、旧城下町各所に見られる稲荷の小祠の一つである。鳥取城下町にも江戸時代に多数の稲荷が勧請され、現在もその多くが残存しているが、鳥取大火・鳥取大震災という二度の近代の災害などのため資料の多くは失われている。本町の稲荷は当初からの棟札等が残存している僅少な例である。  

Tool Box of Microstoria 2015/7/17  本町四丁目稲荷大明神資料について

これは、鳥取大火に際して小谷嘉資氏が危険を顧みず搬出したことと、その当時の本町4丁目の町内会長・門脇秀雄氏が文書の裏打など保存に奔走されたことに預かるところが大きい。この稲荷はほぼ当初地にあるが、鳥取大火後の鳥取都市計画事業火災復興土地区画整理によって位置がやや東寄に移り、社地が減少した。周辺は駐車場に囲まれており、孤立した状態で稲荷社の祠が建っている。祠は昭和30年に再建されたもので、雨漏が見られ、一部資料に水濡れの跡が確認できる。 厨子には御神体の他棟札・安鎮副書などが納められている。最古の棟札は宝暦9年銘のもので、祭主平野喜内信格、願主長倉源之進義知の名が見える(写真1)。由緒書によれば当初平野の本町一丁目屋敷に勧請され、鳥取藩士・長倉の病気平癒を願って勧請された野狐5体を祭ったものであったという。記述から、詳細は分からないが、当初は憑き物信仰に基づく祭祀であったと思われる。   その後、天保3年に伏見から分霊を勧請し、以降正一位稲荷大明神社となった。慶応2年の加島屋衛助の再祭祀の頃(写真2)までは…   もっとみる