寒々しい松の木が一本、城郭の隅に生えている。


 青天であるとはいえ、すでに晩秋、吹きすさぶ風は否応なしに肌を刺す。そんな寒空の下に、松の木は白々とした生肌をさらしていた。分厚い木の皮はことごとく剥がされ、守られていた水分もたちまち蒸発し、やがて枯れ朽ちてゆくであろうことは自明であった。

 なぜ、木の皮が剥がされていたのか?
 食らうためである。
 なぜ木の皮などを食らうのか?
 食い物が、ないからである。
  

    「なァ――なぜ、食い物がないと思う?」
 ぼんやりと、中村春続はつぶやいた。誰に向けたものでもない。ついに観念した腹の虫の断末魔が、自然と、半ばやけくそに言葉となってこぼれ出たものであった。ゆえに応えなど求めていないし、どんな言葉が返ってこようと、むしろ春続の苛立ちを煽るだけに違いないのだった。

 だから、「そりゃあ」という声が聞こえたとき、春続は死んだはずの腹の虫が、怒りで息を吹き返したのを実感したのである。
「食べちまったからだよ、なにもかも、ぜぇんぶ――」
 洞窟から吹く生ぬるい風のような声を響かせたのは、大の字に寝そべった大男、森下道誉であった。手も足も動かぬと見え、呆然と天井の梁を見つめたまま、口だけをもごもごと動かしている。
「米も、魚も、馬も、犬も猫も、そんで蛙も、ついでに草も喰っちまったからなあ……木の皮も煮てみたが、さすがに喰えたもんじゃなかった……そうやって、ぜぇんぶぜぇんぶ、喰っちまったからだな」

 春続は舌打ちをし、
「やかましいぞ大入道。誰だってわかっているさ、そんなことは。おれが問いたかったのは、もっとこう、深い意味であってだな」
「深いも浅いもあるかよぉ。ないものはない。まさにどうしようもないってやつだ」
「情けない声を出すな、美しくない」

 とはいうものの、春続も似たようなザマだった。かろうじて柱にもたれてはいるが、横に倒れぬよう愛用の槍で体を支えるので精いっぱい、怒鳴ることも喚くこともできない。道誉との無意味な問答も、いったい幾度繰り返したことだろう――
 山上の天守は、ふたりと同じような有様の者であふれていた。武士もいれば、農民もいる。生きているのか死んでいるのか、定かでない者も、いる。みな極度の飢えに苛まれ、いつ終わるとも知れないこの戦に、ただ悲嘆と絶望を募らせるばかりであった。

 せめて、わずかでも城から出ることができれば、と春続は歯噛みする。山上の丸の周辺には自然があふれている。兎、鹿、猪、獲物は多くいる。いや動物でなくとも、木の実や山菜であればいくらでも採れただろう。多少なりとも腹の足しになれば、それでいい。それだけで、目前に迫った冬を迎えることができるのだから。

 ――まあ、いまとなっては、それも所詮は夢物語か。
 春続はちらりと視線を外に投げた。東には、この山城とほとんど変わらぬ高さの山が並んでいる。その山頂に陣を構え、こちらを睥睨している男が、いた。
 魔王の走狗、天下布武の尖兵、下克上の猿。男を呼ぶ名は多くあった。春続も兼ねてより聞き及んでいた名の数々だが、いずれも男の力量を表すには不十分。実際に戦って初めて、その強さとおそろしさとを実感したのである。

 男の名は、羽柴秀吉といった。

 農民の出自でありながら、第六天魔王波旬の右腕にまで上り詰めた奸雄。秀吉はあの陣のどこかで、じわじわと弱ってゆく自分たちを見てほくそ笑んでいるに違いない。もし城から出ることができれば、まずは飯を腹いっぱい食らい、それから秀吉の髭っ面に拳を見舞ってやるのだ、と春続は心に決めていた。

「……出られるわけ、ないだろうがな」

 春続と道誉たちが籠る鳥取城の周辺を、蜘蛛の子のようにうじゃうじゃとひしめく秀吉軍が囲んでいる。
 その数、およそ三万。
 鳥取城の座す久松山、隣の雁金山、丸山をぐるりと包囲し、柵を立て堀をつくり、ネズミ一匹逃がさぬよう兵士が目を光らせているのだ。

 城の外を出歩こうものなら、矢だの銃だの、あらゆる凶器が飛んでくる。城に籠っていれば一応は安全だが、それでも兵糧がなければ、やがて餓死するのを待つしかない。ろくに食えなくなってから、いったいどれだけの日が経っただろう。秀吉の容赦ない餓え殺しが、いよいよ大詰めに入るところであった。
 堀と柵の内側には、餓死した者たちの哀れな屍があふれている。生き残っている者たちも一様に生気をなくし、とっくに尽きた兵糧と、いつ尽きるとも知れぬ己が命を儚みながら、一縷の望みをやがて訪れる冬に託して、骸のごとくじっとうずくまるばかり。

 そう、冬になれば、秀吉は退く。峻厳なる因幡の山々において、急ごしらえの布陣で冬を越そうなどという危険を冒すほど、秀吉は無知無謀ではなかった。あと半月、いや一週間でも持ちこたえれば、じきに雪が降り始める。それまでの辛抱なのだ。
 ――というのが、所詮は夢物語に過ぎない。
 人々の死んだ瞳は、そんな失望(いろ)を浮かべていた。

 冬を迎えるまでに決着をつけねばならぬことは、無論、秀吉も承知している。そして降雪が目の前に迫ったいま、秀吉が最後の攻勢に出ることは明らかであった。
 凡庸な兵卒ごときで突破できるほど、鳥取城の構えも甘くはない。

 が、秀吉には切り札がある。
 この世のものとは思われぬ”魔人”たちの存在が。

「――くそっ」
 と悪態をつけば、体中の傷がずきずきと痛む。そうした生傷も、魔人どもとの交戦で負ったものだ。まともに戦って勝てる相手ではない。しかし、生き延びるためには避けては通れぬ手合いでもある。あれともう一度戦えだと? 冗談じゃあない――槍を抱きかかえる腕が、われ知らず震えていた。

 やはり、おれたちの決断は間違いだったのだろうか。
 後悔の念が、春続の心に滲み始める。武士らしからぬ醜き雑念として退けていたはずの感情は、されど今際の際になって、とうとう春続の首根っこを捕まえたのだ。
 鳥取城が地獄と化したのも、春続と道誉が声を上げて、かつての城主山名豊国を追放したからに他ならない。

 ちょうど一年前にも、羽柴軍によって鳥取城は包囲された。そのとき、城主であった山名豊国は、大した抵抗も見せずに全面降伏を選んだのである。これまで毛利方として魔王に抵抗し続けてきた春続や道誉たちにとっては、まったく面白くない。戦いもせぬうちに負け戦と決めつけて早々に降るなど言語道断。たとえ鳥取城ごと滅ぼされようとも、因幡に生きて因幡に死ぬ、それが毛利に仕えてきたわれわれの矜持ではないか――
 そんな訴えもむなしく、豊国は鳥取城を明け渡そうとした。
 春続と道誉は激怒した。豊国などもはや城主ではない、と彼を追放したのである。

 毅然と振り上げた誓いの刃も、いまとなっては悔やまれるばかり。あのとき、大人しく降伏していれば。城主を追放することがなければ。
 このように飢えることも無駄に命を落とすこともなく、恥を忍びながらも生きながらえることができたのではないか――

 そのとき、ふと、
「春続ゥ……おめぇ、変なこと考えちゃあいねぇだろうなァ」
 相変わらず大の字になりながらも、頭だけちょっと起こして道誉が言った。

 春続はぎくりと顔をひきつらせた。
「へ、変なこととはなんだ、きさま。そっちこそ、今度は梁を喰おうなどとは考えておるまいな」
「ふん、見くびるんじゃあないぞ。とっくの昔に試したわい」
「いや、なぜ自慢げに言う……」
「何事も試してみなけりゃあわからん。おめぇがさんざん言ってきた台詞だろうがよォ」

 ぐ、と春続は言葉に詰まった。道誉の言うとおりだ。この城に立てこもることを決意してから、これまで幾度となく口にしてきた言葉――意識して発したものではなかったが、それこそ春続たちの志、反骨の気質を貫くために必要なことだったではないか。

「あのなあ」と道誉は言う。「どんなに綺麗にこしらえられた包みだろうとな、開けてみなけりゃあな、そん中に何が入っているのかわかりゃあしねぇんだ。ぼた餅かもしれねぇし、石っころかもしれねぇ。わかんねぇんだよな、誰にもなあ」
「おい、よせ、この。食い物で喩えるな」
「決めたんだよ、わしらはなあ。包みを開いてみようってなあ。でも、そりゃあ中身を確かめたかったからじゃあねえ。間違えちゃあいけねぇよ、春続。わしらは、開けることを、決意したんだ」
「……わかっている。ああ、わかっているとも」

 第六天魔王に対する反逆の意を示すことこそ、われらが目指したもの。
 半ば、忘れかけていた。
 これは、誰のための戦いか。
 何のための反骨心だったか。

 選択には結果が伴う。それが勝利であれ全滅であれ、いずれ結末は訪れる。自らの下した選択に対し、責任を負わなければならないそのときが。

 それは、しかし、いまではない。

「そうだな……まだ、終わっていない。おれたちは、生きている」
 春続は、そう呟いた。

「それでこそ、おれの家臣だ」
 静かな声が、耳朶を打った。

 春続は身を起こし、立ち上がった。指一本動かすことさえ億劫であったのに、その男の声が、春続の命を奮い立たせた。それは道誉も同じらしく、山のような巨体を荒々しく起こすと、主の前で恭しく頭を垂れた。

「経家様……!」
 春続と道誉の呼びかけに、城主は小さな首肯を返した。

 怜悧にして精悍無比、死地と化した鳥取城の内にありながら、決して絶望することなく家臣や民草を導いてきた英傑が、いま、これまでになく穏やかなる面立ちで、ふたりの前に立っていた。
 ――石見吉川家当主、吉川経家。
 羽柴軍に対抗すべく、毛利方から派遣された切り札。

 城主も飢えてやせさらばえていたが、その双眸はなお炯々と輝き、より一層の生きる意志をみなぎらせていた。
 その立ち姿たるや威光さえ感じられるほどで、武士も民も、動ける者はみな平伏し、あるいは輝ける希望のまなざしを、経家に送っている。

「春続、道誉、よく耐えてくれた。皆にも、礼を言わせてくれ」
「何を仰せか!」春続は言った。「殿がおられなければ、この城はとうの昔に落ちておりました。感謝せねばならぬはわれらの方」
「左様ですぞ」と道誉が続く。「羽柴に降らぬのは、いわばわしらの意地……それを尊重し、命を賭してつかあさった殿こそ、まさに仁徳に篤い御方。わしら、この城と命を共にすること、もはや惜しくもありませぬぞ」

 経家は苦笑した。
「待て待て、いつも言っているだろう、ばかもの。命を惜しめ。たったひとつしかないのだから」

 年齢からすれば経家と春続はさして変わらないし、道誉に至っては経家よりも一回りは上だ。それでも我が子を諭すように口元を緩めると、窓際まで歩み、遠く羽柴軍本陣を望んだ。

「おれは、ずっと考えてきた。この乱世がいつまで続くのだろうか、と。死なずともよい命が散り、絶えずともよい血が、家が、人々の希望が途絶えてきた……ああそうだ、正直なところ、おれも憂いていたんだ。嫌ってさえいた、この時代に生まれてしまったことを」
「と、殿?」
 春続と道誉は、狐につままれた思いで主の背を見た。

 痩せた背中。この城の新しい主としてやってきたときと比べ、随分と小さくなった。これまで経家が何を考えているのかわからない、とふたりが思ったことは幾度かあった。だが、弱音を聞いたことは一度たりともない。餓死者を出しながらも耐え続けてきた経家は、ここに至ってその心中に何を抱くのか。

「おれは、弱い。その自覚のなさが、この状況を招いた。民草を、そして大切な家臣たちを、死に至らしめた。振り返ってみれば、すべての責任はおれにある」

 違う、そうではない――春続は叫びたかった。できなかったのは、否定しようとも経家は認めないとわかっていたからだ。いつもそうだ、そうやって、ひとりですべてを抱えてしまう。力になろうとしても、なれない歯がゆさばかりが募る。
 だから、せめて、共に駆け抜けようと誓ったのだ。この命が燃え尽きる瞬間まで。

「戦国の世を終わらせなければならない。太平の世をもたらすこと。それが、この時代に生きる武士すべての使命だ。だが、おれにはその力がなかった。その道も見えなかった。だから、おれは――おれたちは、ただ生き抜くことを決めたんだ。いつか、目指すべき道がわかると信じていたから」

 経家が振りかえった。
 春続と道誉をまっすぐに見据える瞳は、紺碧の光を帯びていた。
 ふたりが信じ続けてきた光が、そこにはあった。

「おれは誇りに思う。いま、この瞬間を迎えられたことを。信頼できる家臣に支えられ、ここまで生き抜くことができた。ようやく見えたよ、おれの歩むべき道が」

 静かな決意に結ばれた口許が、ついに命じた。

「これが最後の戦いだ――会いに行くぞ、秀吉に」

 長きにわたった籠城戦が、いま、終わりを迎える。