「いや、ほんとうに面目ない。いきなり恥ずかしいところを見せてしまった」
眉をハの字に曲げて、若い武士は頭を下げた。
「いまさら名乗るのも格好がつかないが……吉川式部少輔経家だ。この名山にてともに戦えること、嬉しく思う」
落ち着き払った、堂々たる名乗りであった。
春続と道誉はどんな顔をしてよいのやら、「は」とだけ短く返した。
鳥取城の二の丸、評定の場である。
山の中からひょっこりと現れた新たな城主、吉川経家を上座に置き、その傍らに山縣長茂が悄然たる面持ちで控えている。というより、主の罪を背負った忠犬がうなだれている姿にも見える。その居心地の悪いであろう心中や、推して知るべし。
向かって右側に春続や道誉ら、もともと城にいた家臣が座り、対面に奈佐日本助、塩冶高清ら毛利より派遣された将が並んでいた。
日はすでに西に傾き、格子窓の間から焼けるような明りを差し入れている。
これから魔王の軍勢を迎え撃つための作戦を練ろう、というにはやや遅い時間帯であったし、なにより新城主の着任がこうも珍妙なかたちになるとは、春続も道誉も予想だにしていなかったことだ。とりあえず顔合わせぐらいはしておこう、ということで、形式だけの評定の場が設けられたわけだが――
「ふむ、みな元気がないな」
と真顔で言い放つ経家に、春続は「貴殿のせいではないか」と危うく口に出しそうになって、咳払いでごまかした。
その横から、道誉がのんびりと経家に尋ねる。
「経家様は、城下の様子をご覧になったそうですなあ」
「ああ。自然は豊かで、人々はみな優しい。本当にいいところだ」
「ふうむ。まあ、そうでしょうなあ」神妙にうなずき、「あの第六天が攻めてこようというに、みなが好き好んでこの土地に残っておるのです。確かに、わしらが負ければ土地は接収され、民の生活もより苦しゅうなりましょう。それでも、戦に巻き込まれて命を落とすよりは、逃げるなりあちら側につくなり、身を守る道はいくらだってありましょうなあ。それだけ、わしらは期待されておるということですぞ、殿」
その大胆な発言に、春続は額を手で押さえたくなった。
穏やかな口調であったが、言葉の裏では明らかに経家の行動を揶揄している。おまえは本当に城主足りえるのか、と。
その意図は経家にも伝わったらしく、一瞬、青白いような光が、その澄んだ瞳によぎった。それは怒りでもなければ、悲しみでも、憎しみでも喜びでもなかった。
ひたむきな覚悟。伝わってきたのは、その純粋な一念。
では、何を覚悟しているというのか――それを問うことは叶わなかった。
代わりに、
「く、くくく――」
という不気味な笑いが、奈佐日本助の口唇から滑り出たからだ。
「……奈佐殿、なにがおかしい?」
道誉が問うた。
日本助は片眉をちょいと上げて、さぞ愉快だというふうに体を揺らした。
「やいや、羨ましいもんだと思ってなァ。ここまで能天気になれるたァよ」
そう言ってからからと笑うが、日本助の両の眼はこちらを射抜く鋭さを秘めている。
「能天気、という点では貴公とさほど変わらんと思うがなあ?」
「そう褒めてごしなぁなや。おれァ別に自分の役目さえ果たせりゃあ、あとはどうでもいいだけよ。それよりもな、この戦の最大の問題は、魔王のおそろしさでもなきゃあ、サル(秀吉)やらクロカン(黒田官兵衛)やらの狡猾さでもねぇ。あんたがた御両名の、その曇り切った目ん玉よ」
「なッ――!?」
さすがの春続も、黙ってはいられない。大きく身を乗り出して、
「聞いていれば奈佐殿、随分な物言いをするではないか」
「なんだよ、本当のことを言っただけじゃねぇか」と日本助。「土地が好きだから残ってるだの、吉川の御大将に期待がかかってるだの、とんだ詭弁だろう。都合のいいようにしか現実を見てねぇだけだ」
「きさま――」
片膝立ちになった春続を、道誉がゆったりと手で制する。
余裕、悠然。いきなりの喧嘩腰に対しても、道誉は自若を貫き通す。
「確かに、詭弁はわしの商売道具だがなあ。先のは本心からの言葉のつもりだったぞ。この地に残る者らがいる以上、誰かが守ってやらねばならん。ゆえに、わしらも残ると決めたのだよ」
「そ、こ、が、問題だって言っとるがな! そいじゃあ聞くが、期待って何のことだ? 町や村の衆は、御大将に何を期待しちょる?」
「言うまでもない。魔王の軍勢を追い払い――」
「は! 目ぇ覚ませや、丸坊主の大男さんよ。そりゃあ無理な話だってのは、あんたらも重々わかっとるだろうが」
信じられないことを口走る。
城を守るために戦いにきたものが、はなから負けを宣言するなど言語道断。
やはり、毛利はこの城を捨て石にする腹積もりなのか。
「奈佐殿、落ち着かれよ」
見かねた長茂が口を挟むが、日本助は一笑に付し、
「おれは落ち着いとるよ。ただ、我が物顔で構えとるそこな二人が、哀れでならんのよ」
あくまで冷徹に、海賊という異名を旗に掲げ、放言を積み重ねる。
「みんながみんな、口をそろえてそげ言ったか? 第六天を打ち破って、みごと因幡を守り抜いてくだせぇ期待しとります、だって? 冗談じゃあねぇ。誰もそげな期待なんぞ、しちゃあいねぇ。諦めとるだけなんだよ、そこいらの衆は。いいか、逃げられたんなら、とっくに逃げてるさ。背に腹は代えられねぇ、死ぬのが怖けりゃ逃げりゃいいだけだ。でも、そうはできねぇ。逃げたところで、よすがもなにもねぇ土地で、まともな暮らしが送れるとは、誰も思っちゃあいねぇからな。ほかに選択肢はねぇんだ。生まれついた場所にしがみつくしかよォ。そっから吐き出された苦し紛れの言葉を『期待』と捉えるたぁ、くははっ、大層幸せな人生を歩んできたもんだ」
決して怒鳴っているわけではない。軽薄とさえ言える口調なのに、日本助の言葉は春続の胸の奥に深く重く刃を突き立てた。
知った風な口を――その反論さえ、舌にのせることができない。そうなのだろうか、という思いが脳裏をよぎったからだ。わずかでも、日本助の言葉に利があるのではと感じてしまった。その疑念が口に蓋をした。
そんなはずがない。民を守るべき立場にあるわれらが諦めを口にして何とする。
たったそれだけの言葉が、出てこないのだ。
春続の隣で、道誉は何を思っているのか。同じく口を固く閉ざしたまま、いつもの余裕めいた微苦笑さえ消して、ひたと日本助に目を置いている。
長い沈黙があった。
まあ、と呑気に続けたのは、日本助自身だ。
「それであんたらがどんな戦をしようと、おれには関係のない話だがな。所詮は雇われの身だ。金の分はそれなりに働くさ」
そう吐き捨てると、すっくと立ちあがり、そのまま屋敷を去った。
経家も長茂も、止めようとはしなかった。
まんまと言いくるめられ、あたかもこちらに非があるかのように話が終わってしまった。
否、そんな馬鹿なことがあるか。そもそも勝てぬ戦だというのなら、なにゆえこの城にやってきたのか。
悶々たるわだかまりを胃のあたりに感じていると、
「どうか大目に見てやってください」
それまで石像のように固まっていた高清が、突然動き出した。
「あいつは、頭の中が半分ほど海水に浸かっちまってるんです。塩漬けになった人間ってのは、どうやら態度もしょっぱくなっちまうらしい」
ぽつりぽつりと足元に向かって呟くと、自分の言葉が面白かったのだろうか「んふ、んふ」と咳き込むように笑った。
「塩冶殿も」と春続。「奈佐殿と同じご意見か」
「とんでもない。あたしゃあ、お二方を信用しておりますよ。この辺のことを一番よくわかってるあなた方のご助力がなけりゃあ、勝てる戦も勝てやしない。もっとも――」
高清は薄い頭をつるりと撫でた。
「この戦、勝てるもんじゃあないってのは、海賊の坊主と同じ思いですがねぇ」
「貴公まで、われらの決断に非を唱えるか」
「あいや、そういうんじゃありませんよ。ただね、あたしらの考える『勝ち』ってのと、あなた方の目指す『勝ち』ってのが、どうにも違うような気がしましてねぇ――」
「違う、だと?」
「そう感じただけでさぁ。この戦、あちらさんを追っ払ったら勝利、というわけにはいかない気もしましてねぇ……まあ、お互いが今日顔を合わせたばっかりなんだ。すれ違い、思い違いってのは仕方がないでしょうな。左様でございましょう、殿?」
ここでようやく、話が城主に戻ってきた。
先の押し問答の間も、経家は黙って耳を傾けていただけだ。やはり、怒るでもなく、焦るでもない。西日があたり、凛然とした陰影を刻むその横顔には、武士らしからぬ穏やかさだけが粛然と据えられていた。
「――おれは、この城を守らなければならない」
静かな宣言が、斜陽に落ちる。
「最善を尽くす。そのために、おれはここにいる。では、戦において最善とは何か? 敵を多く倒すことか。犠牲少なく勝ちを収めることか。答えようは、いくらでもある。この戦国の世で智将と呼ばれる猛者たちは、みな己の内にそれぞれの答えを抱いているものだ。日本助の言う諦念、高清の言う勝利……この城をずっと守りぬいてきたおまえたち二人には、納得できない部分もあるだろう。それで当然だ。この乱世に正解などはない。千人いれば千通りの戦がある。だからこそ、この混迷の世は終わらない」
経家の澄んだ瞳が、春続と道誉を順に見据えた。
「戦場に立つときには、己が何を背にして立っているのか、自覚しなければならない。槍を掲げ、刀を握っているその瞬間に、己は何を成そうとしているのか。その答えだけは、常に心の片隅にとどめておかなければならない。それが武士の魂というものだろう」
「…………」
「おれは、世に名だたる城主には遠く及ばない。しかし、この戦における最善が何か、自分なりの答えを用意してきたつもりだ」
次の言葉まで、一拍の間があった。
そのとき、経家が浮かべた笑み――美しく、朗らかで、慈愛に満ちた微笑を見て、しかし春続の心に過ったのは、
――凄絶――
の、一言であった。
その表情を浮かべるに至った過去は、いかなる修羅の道であったのだろう。
そして次に絞り出される言葉は、いかなる地獄を渡り歩いた末にたどり着いた答えなのだろう。
「おれが目指すのは」
経家は、言った。
「痛みなき戦だ」
「痛みなき、戦――」
春続は繰り返した。一語一語を噛み締めながら。
まるで相容れない二つの言葉。矛盾している、としか言いようがない。争えば、必ず血が流れる。傷つき、命を落とし、奪い奪われる。そこには痛みが必ず伴う。痛みなき戦というのは、もはや戦とは呼べない。戦わずして勝つ、とでも言いたいのだろうか。
春続は道誉と目を合わせた。道誉も、経家の宣言をどう取ればよいか決めかねている様子だ。その真意を問おうと、「殿――」と呼びかけるが、
「いまはどうか、ただ聞き入れてくれ」
主に頭を下げられては、口を閉ざすしかない。
「おかしなことを言うと思っているだろう。実のところ、この戦をどう進めるべきか、おれ自身もまだ結論を出しかねているんだ。ただ、やるべきことは明白だ。生き抜き、守り通す。そのためにおれは、おれたちはここにいる」
「…………」
「ゆえに、中村春続、森下道誉。そしてこの城にいるすべての将兵たちに、厳命を下す」
経家は静かに声を張った。
「死ぬな。何があろうとも。何が起ころうとも。最期の瞬間まで、生き抜け」
■
「結局」
と春続が口にしたのは、夕餉の席だった。
「はっきりとしたのは、おれたちと毛利家との間には決定的な溝がある、ということだけだな。やはり戦略家にしてみれば、この城など数あるうちのひとつに過ぎんのだろう」
「そうは言うがなあ」と道誉。「わしらも無下にされているというわけではなさそうだ。吉川元春殿もよくよくお考えの上で、経家殿を送ってこられたのであろうよ」
「まあ……これまでの城主とは、どこか違うようだが」
焼いた鮎をつまみながら、春続は経家の凪いだ双瞳を思い出す。一見すると浅瀬の清流のようだが、底の知れない、どこまでも潜ってゆける深みを湛えた光であった。
傑物だ、というのは直感でわかる。わかるが、しかし、この戦を率いる城主として的確であるかといえば、よくわからないというのが本音だった。
「はっきりと物を申してくださればよいのだが……どうにも、煙に巻かれている気がしてならん」
「そういうお人柄なのだろうなあ。民からしてみれば親しみやすいのだろうが――」
「優柔不断なだけだろー」
つっけんどんな言葉が、隣から聞こえてきた。
「…………」
一瞬、春続の箸が止まる。
春続の横で、皿に載せられた生魚をバリバリとかじっている狸が一匹。
いや、狸なのか、手足の生えた桶なのかわからないが、とにかく毛むくじゃらのそれが人のことばを使い、於丸という名前をもち、ついでに経家の大切な「御供」であると山縣長茂に聞かされていたので、「ふうん、そういうものか」と春続も道誉も思っていたのだが、やはりこれはどこからどう見ても物の怪だ。
とても信じられないが、あまりにも自然に目の前にあらわれて、こうして一緒に食事をとっているのだから、いまさら騒ぎ立てるのもなんだかおかしい。そういうわけで、拭いきれない違和感をどうにか無視しつつ、飯の席を共にしているのであった。
「ちゃっちゃと命令しちまえばいいんだよ」と於丸は言う。「どーせ、人間なんてのはどこまでいっても分かり合えっこない。だから戦をやめられねーんだ。それを、経家のやろー、なにがなんでも穏便にことを運ぼうとするもんだから、かえってじれったくなっちまってるんだ。ヘタクソなんだよ、ヘタクソ」
「……おい、お前。主に対して妙に辛辣ではないか?」
「なんだってぇ? 主はオレ様だぞ、間違えんな!」
くわっ、と大口を開けて牙を剥きだすが、威嚇にしてはなんとも迫力がない。
「ふうむ、それでは於丸殿が、わしらの本当の主ということになるなあ」
道誉がそうもてはやすと、於丸はまんざらでもない様子で、
「へっ、トーゼンだろ! 阿波の青木藤太郎師匠のもとで修業を積んだんだぜ? そんじょそこらの野良狸とはワケが違うっての」
於丸はケタケタと笑う。
「……誰なのだ、青木何某とは」
「さあて、知らんなあ」
春続はがっくりと肩を落とす。その横で、於丸は嬉々と話し続ける。
「オレ様さえいれば、この戦は勝ったも同然さ。秀吉だかなんだかしらねーけど、松山のバカ狸どもを出し抜いた幻術にかかりゃあイチコロだっての!」
「ははあ、そりゃあ頼もしい。ならば戦の折には、是が非でも最前線に立って活躍してもらわねばならんなあ」
「ば、ばか言うんじゃねーよ。一番偉いヤツは奥でふんぞり返っているもんだろ!」
狸と入道が漫談を繰り広げている。いつからこの城は化け物屋敷になったのか。
春続は遠い目になる。
城主は人となりが掴めず、海賊はえらく態度が悪く、山賊はまったく威厳がない。おまけに一番偉そうなのが化け狸ときた。
こんなことで本当に戦ができるのだろうか?
■
「よろしいのですか、皆の者に好き放題言わせておいて」
山縣長茂は、文机に向かう経家の背に問いかけた。
「言い争うなら、早いうちがいい」
文を書き続けながら、経家は楽しげに答える。
「人当たりのいい世辞を並べ続けていても、いつかは本音で語り合わなければならないときが来る。そうなれば、いがみ合うのは必定だ。特に奈佐は堪え性がないからな。戦の最中で揉めるよりも、いまからこういうものだと割り切ってもらった方がやりやすいだろう」
「しかし、奈佐殿や塩冶殿の言い方では反感を買ってばかり、士気も下がりましょう。こちらは寡兵なのです、皆の心を団結しなければ総崩れになりかねません」
「あの二人はきちんとわきまえているよ。口が下手なだけで、戦に挑もうという心意気は同じさ。いざというときには、頼りになる。それよりも――」
経家は手を休め、長茂に体を向けた。
「春続と道誉。彼らの意思は強い。何があってもこの城を守りぬくつもりだ。あのような気高い武士がわが毛利方にいようとは、なんとも嬉しいことじゃないか」
「少し、目先の勝利に気を傾けすぎにも思えますが」
「そこは奈佐や塩冶が補ってやればいい。これから、この城は死地になる。なんとなれば、おれに代わって将兵を率いるぐらいの意気込みがあるほうが心強い」
朗らかに経家は笑う。
こういうところなのだ、と長茂は渋面をつくる。経家は城主として優しすぎる。おれに代わって、などと冗談めかして言うが、中村春続や森下道誉ならば、場合によっては本当にそうしかねない。そもそも山名豊国という城主を追放したからこそ、いまの状況があるのだ。恥を忍んで従属するよりも、戦って名誉ある死を選ぶ。そういう男たちだ。
もっとも、それは戦の国には珍しくもない思想だった。これまで数多くの戦場を見聞し、記録してきたが、そう思わない者こそ少数派であった。忌むべき敵に降るは、戦から逃げる臆病者。命を使い果たす者こそ勇ましけれ。そのような価値観がまかり通る中、経家の戦に対する考え方は優しすぎる。
それが危なっかしくてたまらない。
経家は、決して戦をないがしろにしようとは考えていまい。むしろ戦の厳しさを知る経家だからこそたどり着いた境地だともいえる。長茂には、それが痛いほどわかる。わかるが、他の者が理解し納得できるかといえば、また別の話なのだ。
千人いれば千通りの戦がある。経家の言葉のとおりだ。痛みなき戦という理想は、矛盾しているようだが間違いではない。それでも、遠く感じられる。仏法の説く涅槃よりも、なお手が届かないように思えてしまう。
ゆえに、理解されない。誰もが直感で跳ねのけてしまうのだ。夢物語だ、と。
そこにまた争いが生まれてしまうことを心得てなお、経家は戦い方を、生き方を改めようとしない。
純粋に信じているからなのだろう。
人はいかなる地獄にあろうとも、人であることを捨て去ることはできないと。
「……いざとなれば、まことにこちらの寝首を掻いてくるやも知れませぬぞ」
「そのときは、甘んじて受け入れるしかない。これは彼らの戦だ。彼らが生きるための道を、おれたちが開く。その邪魔になるというのなら、落ち度はこちらにある」
「まったく、あなたというお人は……これ以上の忠言は、もはや無意味でございましょうな」
「そう気を張りすぎるな」経家は長茂の肩を叩く。「これからが本番だ。いくら地形に恵まれているとはいえ、簡単な籠城戦にはならない。備えが必要だ」
「備え、と申されますと?」
経家が言葉を返しかけたとき、館の外に人の歩み寄る気配があった。番兵が誰何の声をあげて、二、三の問答があったのち、戸の向こうから経家を呼んだ。
「殿に、お客人にござります。法元と名乗る修験者のようですが――」
「通してくれ」
がらりと戸が開き、小柄な男が神妙な面持ちで入ってきた。山伏姿である。
「お久しゅうございます、経家様」
法元は経家の前まで歩み寄ると、ゆったりとした動作で額づいた。僧衣はくたびれ、あちこちに汚れや傷ができている。足袋も襤褸同然に痛んでいた。相当な距離を歩いてきたのだろう。灯台の火に照らされた顔は、やつれ切っている。
ただの山伏ではない。経家が魔王方に放った間者だ。
「ご苦労だった――他の者らは?」
しばし黙したのち、法元は力なく首を左右に流した。
「そうか……法元、よく戻ってきてくれた」
法元は、もう一度深く頭を下げた。そして経家に戻したかんばせは、頑なな使命感に満ちていた。
「敵方の動向を申し上げまする。まず、魔王の目は、伊賀に向いております。数年来より続けてきた小競り合いに、とうとう決着をつける腹積もりの様子。伊賀攻めに集められた兵は、四万とも五万とも言われております」
「五万――」
長茂の背を冷たいものが過った。いかに忍びの里とて、所詮は千や二千ほどの兵しかそろえてはいまい。それに対して、明らかに過ぎたる魔王軍の数。もはや戦ではない。
「しからば、山陰攻めを率いるは羽柴秀吉にてございます。軍備のほどは明らかではございませんが、生半可な数ではありますまい。羽柴が指揮した三木の合戦においても、城攻めに動かした兵は一万を下らないと言われております」
「羽柴秀吉、か……時期は?」
「但馬の一揆を平定したのち、早ければ七月にも」
「せいぜい三か月ほどか」
経家の眉が曇る。
「もうひとつ、大事がございます」
「何だ?」
「……敵方には、この世ならざる者どもが控えております。いや、阿呆な話ととられても仕方がありませぬ。いまだ、わが目を信じられない思いでありますゆえ……それでも、あの尋常ならざる者ども、必ず此度の戦における最も悪しき障りとなりましょう」
膝の上で固く結んだ法元の手は、細かく震えていた。明りに照らされた顔が、青白く戦慄いている。
「みな、その魔人どもに命を奪われたのです。あれは……あれは、人ではありませぬ、昏奈衆っ……あのような化け物が……!」
「法元……」
怯える山伏は、ひどく小さく見えた。
その背に、経家は優しく手を置く。
「よく、務めを果たしてくれた。しばらく休み、落ち着いたら福光城に戻るといい」
「……かたじけのう、ございます」
石見の福光城は、かつての経家の居城であった。経家は、したためていた書を法元に渡し、福光城へ届けるよう命じた。
「…………」
経家と長茂は、憔悴しきった法元が去る痛ましいさまを、じっと見つめていた。
「経家様、いまの法元の言葉は……」
「ああ。風のうわさには聞いていたが……」
昏奈衆。
その不穏な響きが、鼓膜にじっとりと絡みつく。
■
「この戦、兵糧の確保こそが鍵となる」
翌日、改めて設けられた評定にて、経家はそう宣言した。
「敵は羽柴秀吉。おそらく数万の兵をもって攻めてくるだろう。そうとなれば、籠城戦の長期化は必至……伯耆からの後詰が到着するまで耐え忍ぶんだ」
「伯耆からの援軍を待たずとも、亀山城の吉岡殿を頼られてはどうか?」
と家臣のひとりが提案した。亀山城は鳥取城からわずか二里ほどの距離、策士とも名高い吉岡安芸守ならば大いに助けとなってくれるのではないか。
「いや、難しいだろうな」と経家。鳥取城周辺の絵図を指さしながら、「南の私部、生山、船岡、用瀬、鬼ヶ城。東の岩常、雨滝。西の鹿野、弓河内、そして羽衣石……周囲の諸城は、すでに秀吉の手に落ちている。主だった陸路も、おおかた塞がれてしまった。残るのは亀山、大崎、泊、八橋あたりだが、鳥取城を攻める前にまずはこれらの城を落とそうとするはずだ。完全な包囲陣を布いて、長期戦に持ち込むと考えらえる」
幸か不幸か、矢玉や火薬の備えは万全だった。前城主が米を売り払った金で、ありったけのものを買い込んだからだ。
「米を高価で買い取ったのは、京に伝手のある商人といったな……おそらく、それも秀吉の差し金だろう」
というのが、経家の見立てだった。
状況を考えれば考えるほど、秀吉の周到さには舌を巻くほかない。武力をもって攻め落とすのではなく、兵糧や援軍といった戦の環境全てを掌握するために幾重にも策を巡らせている。
事実、鳥取城は目に見えぬ包囲網の内にあると言えた。因幡から伯耆への道は、羽衣石城の南条元続によって閉ざされており、また備前には宇喜多直家が控え、毛利本軍の兵を阻んでいる。孤立無援とはまさにこのことだ。
鍵は、やはり後詰の到着だ。だが、それともう一つ、と経家は付け加える。
「山陰の気候を利用する。冬まで耐え忍べば、豪雪が味方になる。秀吉がどのような布陣を構えたとしても、ろくに補給路のないこの地には留まれない。引き返せば、そのときこそ体勢を立て直す好機だ」
痛みなき戦。その第一の目標は、極力戦いを避けること。
消耗を抑え、ひたすらに耐え抜いて、冬の訪れを期待すること。
「しかしッ」春続は吼える。「それではもはや、天運に賭けるに等しいではありませぬか! 何もせずにただ日が過ぎるのを待てなどとは――」
「いまさら気付いたかよォ」
口を尖らせたのは、奈佐日本助である。
「向こうからすりゃあ、戦局はすでに大詰めよ。こっちにできることなんざ、たかが知れとるだらぁが。もうちったぁドシンと構えんかや」
そう豪語して、からからと笑う。
「だが――」
「諦めではない。これが最善の手だ」
落ち着き払った経家の声が、春続を押し留める。
「備えは、まだ十全とは言えない。数千、あるいは数万の兵を相手に籠城するんだ。この天然の要害を、おれたちの腕で難攻不落の城に仕立て上げようじゃないか」
新城主のもと、秀吉に対抗すべく軍備の拡張が始まった。
最も優先したのは、兵站線の拡充だ。
要となるのは鳥取城より北西、日本海に面する港町の賀露である。因幡‐伯耆間を南条元続がおさえている以上、陸路での兵糧の運搬は難しい。となれば、残されたのは海路、すなわち賀露から千代川の支流、袋川を上り、丸山城を経て鳥取城に至る経路だ。鳥取城から北西を眺めると、これらの地点はほとんど直線に並んでいる。
賀露から丸山城までの経路は、海賊こと奈佐日本助が受け持つこととなった。とはいえ周辺の諸城からは、すでに秀吉の斥候が放たれている。大それた動きはできない。日本助は悟られぬよう、わずか数名の兵を使って兵糧を運搬する経路の確認、方法の吟味を重ねた。賀露をはじめ、日本海側の港町には日本助の顔見知りが多い。あらゆる伝手をたどり、秀吉が動員するであろう水軍の情報収集にも注力した。
一方、塩冶高清は山地の現状を検めた。賀露から丸山城まで兵糧を運んだ後は、鳥取城のある久松山までにもうひとつ、雁金山を超える必要がある。高清は、この頂に砦を築くことを進言した。尾根を伝い、確実に兵糧を運ぶためには有効だ。秀吉到着まで、幸いにも三か月ほどの猶予は残されていた。鳥取城ほどではないが、中継点としては十分な設備を整えるぐらいはできる。
「しかし、砦をつくるということは、守らねばならん地点が増えるということにもなりますからねぇ」
短兵急に山を切り拓きながら、高清は皮肉気に笑う。
「雁金山に砦があれば、兵糧は随分と楽に、しかも安全に運べるでしょうな。けれども、裏を返せばこいつを取られちゃあ形勢は一気に逆転します。皆さん方、諸刃の剣を懐に抱く覚悟はありますかねぇ?」
「是非もない」
春続、道誉ら在来の武士は口をそろえて答えた。
そもそも、背水の陣なのである。ここで危険がひとつ増えたとて、尻込みする者はいない。砦を構えなければ、かえって兵站線確保に支障が出るおそれもある。つくらなければならない。それ以外に選択肢は残されていないのだ。
かくして季節は夏に移ろい、太陽を照り返していた水田もいまや成長した穂に覆われ、戦の気配が遥か東方から近づいてくる。
普請は大方整った。武具や資材も潤っている。惜しむらくは、経家が吉川元春に要求していた兵糧が未着であることと、春続、道誉らと日本助、高清らの間柄のわだかまりが取り除けなかったことであろう。
埋めることのできない、戦に対する認識の差――互いに言葉を尽くす暇さえなく、秀吉は、魔王の軍勢は、攻め寄せてくる。
天正九年七月一二日。
ついに、ふたりの麒麟が因幡の地に並び立つ。
■
「――壮観なものだな」
その呟きは誰のものだっただろう。放った本人にさえ、自覚がなかったかもしれない。
鳥取城より望んで北東、帝釈山。
山全体を黒い影が覆いつくしているかのごとき光景を目にし、城内の誰もがしばし言葉を失った。
「少なく見積もって二万、か――」
報告を受けた春続も、さすがに体の震えを抑えきれなかった。
自軍の十倍をも超える数の兵が、この城を取り囲もうとしている。帝釈山の山頂に光るのは、金色の千成瓢箪。秀吉は不敵にもこちらの目と鼻の先、やまびこが届くほどの距離に陣を置いたのである。兵たちの地面を踏み鳴らす音が、武具のこすれ合う音が、吹上浜からの海風に乗って押し寄せてくる。その音の波に、鳥取城がまるごと呑まれるのではないか、と錯覚するほどであった。
「もう怖気付いちまったか、春続よお」
道誉に背を叩かれ、「武者震いだ」と声高に返す。
帝釈山に布陣してのち、秀吉軍は鳥取城を囲むように無数の付城を築き始めた。アリ一匹も通さぬつもりだろうが、総勢二万人による包囲網、その規模はかえって滑稽にさえ思える。
「あれだけの数がいながら、一気に攻め落とそうとしない。案外気が小さいのだな、秀吉という男は。長期戦の構え、殿の見立てどおりだ」
「まあ、いくら魔王軍と忌避されようと、所詮は人の子だということだなあ。無意味に血を流したくはないのであろうし、こちらとしても持久戦は望むところよ」
などと軽口を叩き合う春続と道誉であったが、表には出さぬものの、長年の付き合いから互いの胸中を察しあっていた。
秀吉軍の印象は、不気味、の一言に尽きる。
日が暮れ、包囲網が闇の底に沈んだのち、その不気味さは一層強まった。
篝火さえ焚くことなく、ただ凝っている宵闇と同じように、息を潜め続けているのである。時折、人のような影がうごめいているのが辛うじてわかる。それと見なければ、包囲されているとは思えぬほどに。
よほど疲弊しているのであろうか。それにしては、様子があまりにも変だ。厳重に過ぎる陣割り、その殺気はまさしく鳥取城を攻め落とそうとする執念の成す技である。傍から見れば、この城は絶体絶命――なのだが、恐れているのはむしろ、秀吉軍の方にも見えるのだ。
「そりゃあ見当違い、ってわけでもなさそうだなァ」
握り飯をむさぼりながら、日本助は木柵越しに帝釈山を眺めた。本陣の周辺も他の付城と同じく、まったき夜に包まれている。秀吉がいると思しき中央の陣幕のあたりにのみ、蛍の光ほどの灯りが見えた。
「奴ら、何かを隠そうとしちょる。おれたちにバレないように、じゃあねぇ。自分自身を隠そうとしてやがるんだ」
「奈佐殿、何かとは何だ」
「知らんがな。ただ、夜襲ってわけでもなさげだぜ。そんな音は聞こえねぇ」
「連中も」と高清。「慣れん山を灯りもなく歩くほど、素人じゃあないでしょうからなぁ。まあ、よからぬ企みであるのは明白ですがね」
「ふむ……しばし警戒を強めねばなるまい」
春続は物見の兵らに篝火を強めるよう指示を出した。守りを固めるに越したことはないが、相手の動向がつかめない状況では、これ以上の手は打てない。後は、急襲に備えて可能な限りの休息をとることだ。
「殿はすでにお休みになられた。奈佐殿と塩冶殿も、いまのうちに休んでおくといい」
「そいじゃあお言葉に甘えて」
「春続殿はいかがなされるんで?」
高清は問うた。
「おれは……まだ、様子を見ておきたい。どうにも胸騒ぎがする」
「左様ですかい。ま、おかしなことがあったら、いつでも知らせてもらえれば」
「ああ、任せろ」
肩をすくめて立ち去る高清に、道誉もノコノコとついてゆこうとする。
「あんまり根詰めるなよ、春続ゥ」
「待て道誉。きさまは、おれと見張り番だ」
「なんだと……わし、とんでもなく眠いんだがなあ」
「気のせいだ。三日ぐらい寝なくとも、きさまはくたばらん」
「わしを妖怪か何かと勘違いしておらんか?」
「ああそうとも。妖怪大飯食らいだろう」
他愛もない言葉を交わしながら、春続は帝釈山を睨み続ける。
正直なところ、いまはこうして下らない会話をする相手が欲しかった。
剣戟もなく、陣太鼓もとどろかず、静寂のうちに戦が始まった。強大な敵が眼前にいるという実感が、どうにも伴わない。付城も二万の兵も、すべて幻視なのではないか。こう思わせることこそ敵の策略なのかもしれず、かといってこちらから攻めて出るわけにもゆかず、結局のところは時が過ぎるのをただ待つしかない。
籠城戦とはこういうものだ。どちらかが音を上げるまで終わらない。このまま待ち続けて、それで勝てるのだろうか。高清の言葉を思い出す。目指している勝利が違う、と。
一抹の不安が過る。
この戦における勝ちとは、何だ。
おれは、いま、どこへ向かってゆこうとしているのか。
「……それでも、勝たねばならん」
すでに戦は始まっている。
夜が更けてゆく。
戦の夜が。
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