天正九年三月十八日



 透きとおった冷たい水が、さらさらと流れてゆく。

 心まで涼しくなる水音に乗るのは、蛙の大合唱だ。

 緑が深まり、春の陽気さから夏の暑さへと移ろいつつある時節。水田には植えたばかりの稲苗がそよそよと風に揺れ、波紋広がる水面には青々と澄み切った空がさかさまに映えていた。

 一方で、農業に励む小作人たちの表情は、重い。

 戦の気配が近づいているからである。

 戦が起きれば、田畑が荒らされる。人の血が流される。命が奪われる。

 失われるものが、あまりにも多すぎる。

 それでも人々は、稲作に励まなければならない。畑を耕し、豆や芋を植えなければならない。

 命を繋ぐために、食い物をつくらなければならない。

 人々の間には、倦怠が、漂っている。

 戦か。また戦か。また始まるのか。いつ終わるのか。

 地獄と近しいこの世に生まれてなお、少しでも生き延びるためには食糧を生産し続けなければならないのだ。

 ここは修羅道か。餓鬼道か、畜生道か。

 憤懣、諦念、絶望、虚無――

 どれほど黒い影が人々を染め上げようとも、己の命が命じる限りは、生きねばならないのだ。


     ■


 そんな虚ろを抱く人々の耳朶に届くのは――ひょう――と雑念を切る、鋭い音。

 遠く、久松山のふもとから、聞こえてくる。

 赤い槍だ。

 槍が舞う音だ。

 一本ではない。向かい合ったふたりの男が、互いに持った槍を繰り出しあっているのである。

 ひとりはまだあどけなさの残った顔立ちの若者であった。一応は足軽のなりをしているが、槍の扱いはおぼつかず、型もなくひたすらに突きを出しては引っ込めて、を繰り返していた。

 いまひとりの男は、そんな眼前に迫る槍の穂先を、飄然とした表情のままいなしていた。槍の柄で受け、相手の切っ先を逸らすその所作に無駄はない。あまつさえ、隙を見つけては鋭い突きを返し、刃で手や足をぴしゃりと叩く。

「どうした、もう限界か? 腕が下がってきているぞ!」

 槍術の指南役、中村春続(なかむらはるつぐ)が飛ばした檄に、若者はかすれた雄たけびで応える。

 若者は、武人ではなかった。普段は村で米づくりに精を出す、ひとりの農民に過ぎない。そんな彼が槍を持ったのは、ひとえに自分の生まれ育った地を守りたいという決意からだった。

 日に焼けた肌、節くれだった指は、田畑に慣れ親しんだ者のそれだ。鍬や鎌ならばいくらでも扱えようが、槍を握るなどこれまで経験したことがないだろう。攻めに正確さが足りないのも仕方のないことである。それでも、いや、そうであるからこそ、春続は指導に一層の熱を込める。

「相手の槍の先に気を取られるな、目を見ろ! 戦場では相手を目で貫け! 殺気に怖気づけば、やられるのはお前だ。視線に命を懸けろ!」

「う、お、おおおおおっ!」

 若者は喉から気合を振り絞って槍を繰る。春続は厳しい表情で受けながらも、内心では満足していた。未熟だが、自ら志願したとあってさすがに心が強い。戦においては十分に役立つだろう。

 そう――やがて、戦が始まるのだ。

 一度は退いた羽柴軍が、今度こそ本当に鳥取城を落とすために。

 鳥取城は羽柴軍の迎撃に向けて、準備を進めているところであった。春続による槍術の指南も、その一環である。指南とはいえ、相手は戦に慣れていない一兵卒だ。武術の達人に仕立て上げようというわけではない。春続が教えているのは、戦の心構えなのだ。

 羽柴軍との戦いは、前回と同じく籠城戦になるだろう。

 となれば、守り手側であるこちらに圧倒的な利がある。槍持ちの役目は、堀を渡ろうとする敵を退けることだ。柵に隠れながら下の堀に向かって槍を突き出すのだから、実際にはそこまで技術を必要としない。堀を這い上がってこないよう牽制できればそれで十分だった。

 求められるのは、血が通う同じ人間だからと、攻めの手が竦むことのない胆力だ。それを若者に見出し、春続は上出来だとうなずいたのである。

 若者の渾身の一振りを受け止めて、春続は「よし!」と槍を下ろした。     



                                                                                                        
      

「今日はこれくらいにしておこう」

「は、はい……ありがとうございました……!」

 息も切れ切れだったが、若者はやり遂げた表情だ。

「いい目をしているな。心意気のしっかりとした美しい目だ。だがな、少し気負いすぎだぞ。肩の力を抜け。この城だってそう簡単に落とされはせん」

 一度は羽柴の軍勢に降った城だが、それは戦に負けたからではない。人質という搦め手を利用されたために、前城主の山名豊国は降伏を選んだのだ。まともにやり合おうものなら、痛い目を見るのは羽柴軍に違いなかった。

 春続は、せわしく動き回る人々を見た。

 鳥取城に残った兵力は、およそ五百。実際のところ籠城するには心許ない数であった。だからこの若者のように実践経験のない者であっても、貴重なひとりの兵であることに変わりはない。

 春続にできるのは、若者の心意気に報いることだけだ。

「おまえのような若い者のちからは、おれたちにとってまさに切り札となる。だからまあ、いまからくたびれてもらっても困るんだ。気楽に構えているといい」

「は、はいっ! 精いっぱい頑張ります!」

 頬を上気させて、若者はうなずいた。

「おい、気楽にと言っているだろうに……まあいい、そろそろ昼飯時だな。腹ごしらえをしてこい。戦に飯は不可欠だ。食っておかなきゃあ、力も出せん」

「春続様は、よばれならん(召し上がらない)のですか?」

「おれはもう少し体を動かさなきゃあならんのだ。朝に食ったぶん、まだ腹に残っているからな」

 そういって、春続は引き締まった腹をなでた。

 見事な腹筋だ。横腹にさえ、わずかのぜい肉も付いていない。

「食った分は、動かねばならん。要はつり合いだ。美しさというのは綱渡りのようなものでな、少しでも怠けが出れば、醜さの沼地に落ちてしまう。そうなれば、這い上がってくるのは大変だ。もういちど綱に上がるには、倍以上の労力をかける必要がある。それこそ、真の醜さというものだ。美しさを維持するところに、まことの美しさが潜むのだ」

「そ、そうですか」

 若者はどのような表情をすればいいのかわからない、といったふうに目をぱちくりとさせる。

 ――中村春続という男、どういうわけか、常に腹を出している。鍛えぬかれた体だ、決して不愉快な絵面ではない。ないが、しかし……さらしを巻くでもなく、ただ胸の下までの丈しかない短い陣羽織だけを肩からかけて、ときおりその肉体美を披露するかのような所作をとる春続のことを、かの若者をはじめ、城内の人々はみな不思議そうに、というよりもただ呆気に取られて見つめるしかない。厳冬であろうと関係なく、年中そんな恰好をしているのだから当然であろう。おまけに肌が白い。いつも日に当たっているはずなのに、一向に焼けない。春続の体質なのだった。

 そして、みなから奇異に思われているという自覚さえ、春続にはあった。というよりも、風聞をあえて承知で、その恰好を崩さないのだ。

「そういうわけで、おれはまだ残る。早く食ってこい、さもなきゃ誰かに取られるぞ」

 にこやかに、春続は長い髪をかきあげた。髷を結っていなければ、月代を剃ってもいない。もともと兜を被れば蒸れてしまうから、みな頭を剃る。しかし兜を用いない春続には関係なかった。理由はただひとつ、美しくないからである。

 中村春続は、実に、自分が大好きなのであった。

 年の頃はすでに三〇も半ばに差し掛かるが、白皙の美丈夫ぶりは一向に衰えを見せない。にっと笑いかけられれば、乙女は頬を赤らめよう。しかし相手は若い男、口の端をちょっと上げて苦笑気味に「はあ」と返事するや、それまでの春続に対する敬愛ぶりはどこへやら、なんだか逃げるように立ち去っていった。

 無論、春続はそんなことを気にしない。

 改めて槍を構えて素振りを始めようとした、まさにその横合いから、

「なんだ、春続。おめぇはいかねぇのか。食わねぇんならわしがもらうぞ」

 と、のんびりとした声が聞こえてきた。

「……食わない、とは言っていないだろう」

 槍を構えたまま、春続は言葉だけを返す。

「知っているか、春続よ。仏門にはな、こういう言葉がある。『なすべきときを逃さば、なさざることを必ず後悔するなり。ゆえに飯は時間どおり食え』とな」

「適当を言うな、エセ法師め」

「いやいや、これがどうにも真理でな。だいたい『やめときゃあよかったなぁ』と思うよりは、『やっときゃあよかったなぁ』と後悔することの方が多いのよ。思い出すわい。十五になったばかりのあの日、茶屋ですれ違った娘にちょいとばかり勇気を出して声をかけておりゃあ今頃は――」

「おい、よせ、きさまの色恋沙汰など興味もないわっ」

「そうかあ? 念仏講で教説垂れるよりも人気なんだがなあ」

 まったく堪えていない笑い声と、それからむしゃむしゃと何かをほおばる音。

 春続がちらりと視線を横に流せば、両手にもった真っ黒な岩石に、大入道がかじりついているところだった。よくよく見れば、岩石などではなく海苔で巻いた握り飯なのだが、大のおとなの顔に負けぬほど巨大なのだった。

 かと思えば、握り飯はみるみるうちにしぼんでゆき、その向こうにつるりと禿げあがった頭が光る。

「……ちっ、大道芸を見せられては集中もできん」

 春続は構えを解くと、指に付いた米粒をちくちくと口に入れる大男をにらんだ。

「なにっ、大道芸? どこでやってる?」

「きさまのことだ、この妖怪大飯食らいめ」

「あれだなあ、おめぇさん、子どもの名づけは誰かに任せた方がいいぞ」

 朗らかに笑う、森下道誉(もりしたどうよ)。春続と同じく、鳥取城で魔王に徹底抗戦しようと決意を抱いた猛将の一人である。もっとも、戦のとき以外では、勇猛さの「ゆ」の字も垣間見えないのらりくらりとした性分であった。

 山伏のように法衣をまといながら、時折ありもしない仏法を説く。馬鹿げていながらも筋が通ることを言うので、本当に騙されたような気分になる。

 春続は、そんな道誉がまったく気に入らない。

「やかましいっ。食い終わったんならとっととあっちへ行けっ」

「わしは、別に食う姿を見てほしかったわけじゃあないぞ。おめぇさんじゃあるまいに」

「ええい、とことんまで人を食ったやつめ」

「人は食っとらん」

「なんだ、なんの用だ。さっさと言え」

「いやさ、安芸の吉川殿より書状が届いてな……」

「なに、元春殿から?」

 道誉は懐からくしゃくしゃになった書状を取り出した。その雑な扱いに腹が立って、ええいこのっ、と春続は書状を奪ると、目の前に広げて読み始めた。

 その顔がみるみると青くなるや、今度は真っ赤に染めて道誉に怒鳴りつける。

「ば、ば、馬鹿かきさまはッ! ややや弥生の十八日といえば今日ではないかッ!」

 書状には、春続らが救援を求めた吉川元春より、新たな城主が鳥取城へ入城する予定の日付が記されていたのであった。

 天候や道具合によって、誤差が生じることはあろう。それでも、せいぜいが数日だ。迎え入れる準備をするにも、時間がいる。それをこの大入道は!

「この書状はいつ届いた! いつから隠し持っていた!?」

「さてなあ、一〇日ぐらい前からかのう」

「かのう、ではない、たわけめッ! なにを考えているんだきさまは――」

 胸倉に掴みかかろうとする春続を、道誉はひょいとかわし、

「まあ落ち着けよう、春続。この件、ちょいと考えがあってなあ」

 顎に手を当てて、神妙な顔でそう口にするものだから、春続もつい意気が削がれる。

「……どういうつもりだ」

「その書状だがなあ、新しい主とやらの名が記されておらんのよ」

 言われてみれば、そのとおりである。到着予定の日は書いてあれども、肝心の城主が不明なのだ。まさか書き忘れなどということもないだろう。

「元春殿は、あえて伏せておられる。お考えがあってのことだと思うが、しかしなあ、春続……市川殿や、朝枝殿の件もある。わしにゃあ、どうにもこの城がないがしろにされているように思えてならんのだよ」

 実は、豊国の追放以降、新しい城主を迎えるのはこれで三度目なのである。

 一人目の牛尾元貞は、勇猛果敢で人柄もよく、城主としての器量は申し分なかった。しかし、入城して間もなく、敵との小競り合いの最中に負った矢傷が原因で病に倒れた。

 次いで派遣された市川雅楽允、朝枝春元のふたりはというと、籠城には一応の理解を示すものの、かといって積極的に何かの策を打ち出すということもなく、ただいたずらに日にちを食うばかりであった。城主とするには、あまりに狭量にすぎたのだ。

 そういうわけがあって、もっとふさわしい人物を、と吉川元春に請願したのが今年の二月の頭である。吉川としては、派遣した武将に次々と難色が示されるものだから、おもしろいはずがない。

「意趣返しと言っては何だがなあ、元春殿のお怒りようが透けて見えるようでなあ」

「馬鹿な。そんな稚気に毒されるようなお方ではないだろう」

「あるいは、はじめっからまともなお人を派遣するつもりなんてない――とも解釈できる」

「妄言だ。この鳥取城が落とされれば、因幡は完全に魔王のものとなる。最後の砦なのだぞ、この地は」

「何も、意地になって守り続けることばかりが戦じゃあねぇよう。どうしても不利だとわかっているんなら、一度、城を明け渡しちまって、体勢を整えてから奪い返すってえのも立派な戦術だ」

「……元春殿は、おれたちを捨て石にするつもりだと?」

「可能性は、まあなくもないだろうなあ。なんたって、わしらは元々尼子方、元春殿からしてみれば外様も同然よ。わしらの命なんぞ、碁盤に並べる軽石程度のものとしか見られておらんかもしれんなあ」

「フム……」

 書状の達筆に目を落としながら、春続はうなった。

 毛利輝元に吉川元春、国を背負った男の視点は、自分たち前線の兵とは違う。向こうは駒を動かす側で、こちらは動く駒そのものだ。たとえ命を投げ捨てるような采配をされようと、駒としての役目を果たすためならば、その号令に殉じなければならない。命の価値は平等ではないのだ。負けおおせて野良犬のような余生を送るよりも、戦って華々しく死ぬることこそ我々の本懐。それが戦国の道理だ。

 わかっているさ。それくらい。

 胸の内で吐き捨てておきながら、春続は、やはり腑に落ちない。

 本当に道誉の言うとおり、元春殿がこの鳥取城を「骨を断つための肉」とするつもりだとしたら――民はどうなる。あの若者の命は。

 あれは、死ぬために戦っているのではない。おれたちとは違う。

 何のための戦いか。春続の答えは決まっている。

「仮に、おまえの憶測が正しかったとしても……」

 春続は、書状を握り締める。

「おれはここを動くつもりはない。城を守ると決めたのだ。いかなる暗愚を主に戴いたとて、おれがこの戦を降りる理由にはならん。まったく、美しくない」

 その辛辣な面立ちを見て、道誉がつるりとした額をぽりぽりとかいて一言、

「おまえはあれだなあ。なんというか、槍みてぇだなあ」

「なんだ、それは。褒められているのか」

「あたりめぇよお。真っすぐでなあ、自分の思った道を迷いなく突き進むのよ。まあ愚直とも言うが」

「おい、きさま、馬鹿にしているだろう」

「ちょっとだけなあ。だいたい八割ぐれぇだが」

「ほとんど罵倒ではないか! ええい、調子が狂う」

「生真面目すぎるんだよぅ、おまえさんは。わしは、別に元春殿をちっとも信用しとらん、などと言ってはおるまい。ただ、どうにもなあ……」

「――要するに、おまえも煮え切らんわけだろう、道誉」

 春続は、腕を組んでいる道誉を小突いた。

 援軍なくして、この戦には勝てない。やってくる城主が誰であれ、またどんな思いであれ、頼るしか自分たちに道は残されていないのだ。

 春続と同じく、命を懸けている道誉だからこそ、書状をどのように捉えてよいのか決めかねているのだろう。

「それとも何か、大入道とあろう者が、臆病風に吹かれたか?」

「ふふん、最近蒸し暑いぐらいだからなあ、わしにはちょうどいいそよ風よ」

「いや、なぜ誇らしげに言う」

「実はな、春続……豊国様がこの城を捨てられたときにはなあ、つい頭に血が上って、魔王に啖呵を切ってしまったが……最近はあの方が正しかったのではないかと考えることもあった」

「なんだと――?」

「まあ待てよ、そうにらむな。わしとて武士の端くれよ、いまは腹をくくっておるし、いざとなればこの地に骨を埋める覚悟もある。だが、新しい城主殿にそのつもりがあるかとなれば、話は別だろうなあ?」

 薄ら笑いさえ浮かべながら、道誉は続ける。

「命はなあ、ひとつしかないんだよなあ。使いどころを見極めなきゃあならんのよ。死に様をなあ。おまえは言ったな、春続よ。どんなに愚かな城主であれ、仕えることをやめはしないと」

「当然だ。それが武士というものだろう」

「間違っちゃいねぇがよう」

 道誉はつるりと頭をなでて、

「わしはな、春続。おまえさんが残ると言ったから、残ることに決めたのよ」

「……」

「おまえがこの地で命を使うと決めたからなあ、わしも使うと決めたのよ」

 春続は、道誉の双眸に、危なげな光が過るのを垣間見た。

「なあ、春続」

 そして、次に放った言葉に、肝を抜かれるのである。

「もしものときは、おまえが城主になれ」

「なっ――ば、馬鹿を言うな、なぜおれが――」

「誰かの命令で命を落とすなんてなあ、おかしいじゃあねぇかよう」

 切実――ともとれる道誉の声色に、春続はハッとなる。

「鳥取城を守ると決めたのは、おまえさん自身の意思だろう? 誰かに命令されたんじゃあねぇ。おまえさんが守りたいと思ったから、守るんだろう? だったらよぉ、おまえさんは命令を仰ぐ側じゃあねぇ。命じる側になれる。いや、なるべきだ。この城に残った兵を率いてなあ、一声あげりゃあいいんだよぅ。守るために命を散らせってなあ。そうすりゃあ、わしだって何の迷いもなく突っ込めるんだよ」

「――いや、だが――しかしな……元春殿から遣わされた者をないがしろにしては、吉川家に、いや、毛利家に弓を引いたと思われても仕方がないぞ」

「戦果をあげられなきゃあ、どの道、それまでよ。前々から思っておったのさあ、おまえさんは、一国の主になるべき男だ」

 真っ直ぐな、あまりに力強い道誉の告白だった。

 いや、しかし、ううむ、と唸り続けていた春続だったが、ここまで煽てられては悪い気などしない。もともと城主になるつもりなどなかったのに、そう言われて初めて己の中の願望、自ら城の頂点に立って兵や民を率いることへの憧れに気付いたのであった。

 わかった、と春続は槍を強く握りしめる。

「そこまで言うのなら、よし、受けて立とうではないか――」

 と決意を新たにした春続だったが、その声を道誉のからからとした笑い声が消し去って、

「まあ、半分は冗談だがなあ」

 などとほざいたものだから、「なッ――」と春続の堪忍袋はとうとうはち切れてしまう。

「いい加減にッ、人をおちょくるのも大概にしたらどうだ、このタコ坊主がッ! おれが真面目な話をしようと思えば、きさまはいつもいつも――」

「おお怖ぇ怖ぇ。さっきも言っただろうがよぅ、生真面目すぎるんだなあ、おまえさんは。いいか、ただでさえ戦況はよくねぇんだ。わしらを率いる主がどんな人間であるのかが、この戦の大局を大きく左右するんだよ。おまえさんにもわかるだろう? 誰でもいい、なんてわけにゃあいかねぇんだなあ、いくらおまえさんにやる気があろうとな」

「……だから、書状に名前が書いてないことが不安なわけだろう、きさまは」

「まあ、要するに、そういうことだなあ」

 なんだか狐につままれたような気分だったが、道誉は道誉なりに、心を落ち着かせたかったのだろう、と春続は結論した。そのために話に振り回されたのは、やはり癪だったが。

 ともかく、いくら懸念を積み重ねようと、答えは出ない。実際に主を出迎えてみなければ、吉か凶かは闇の中なのだ。なるほど、確かにこんなことで悶々とした日々を過ごしたくはない。書状を道誉の懐の内で眠らせておいたのも、半分は正解だったかもしれない。

「まったく、面倒な男め……」

 嘆息したとたんに、腹の虫がぐうと鳴った。そういえばまだ昼食をとっていなかった。体を動かすつもりが、結局、怒鳴ったり焦ったりで胃を空にしてしまったようだ。何でもいいから腹に詰めておくか、と思ったところで、遠くから物見の兵が駆け寄ってくる。

「……参られたか」

 高揚した顔色を見て、春続は察した。吉川元春の遣わした援軍が、早速に到着したのである。

 ――やはり、飯は時間どおりに食っておくべきだったな。

 道誉の言に利があったと証明されて、またぞろ不愉快が積もり積もる春続であった。

     ■



 

 鳥取城より向かって北西、賀露の港の方から兵たちが列をなして歩いてくる。近づくにつれ、丸印に三本の横線が引かれた家紋を描いた旗が、潮風に乗ってひらひらとはためくのが見えた。『丸に三つ引き両紋』と呼ばれる吉川元春の家紋である。

 兵の数は、遠めに見積もって千を下らないだろう。いま籠城している五百人と足せば、少なくとも三、四倍の兵を相手にできる。が、魔王の軍勢は桁が一つ違う。いくら環境に恵まれた鳥取城とはいえ、不安をぬぐい切れない数字であった。

 まもなく、先陣が入城する。

「フム――」

 新緑の季節とはいえ、青天の昼下がりは焼け付くような日差しが降り注いでいた。そんな中、徒歩で鳥取城に踏み入った兵士たちの、汗を垂らしてはいれども真一文字の口元、鋭いまなじりといい、一見して士気は申し分ない。

 書状の件は杞憂であったか、と息をついた春続に、城主を見るまではわからん、と横に立つ道誉は小声で告げた。

 では誰がその城主か、とふたりは頭を巡らせる。

 列の中ごろに、馬印持ちの兵に前後を挟まれて、悠然と馬に乗る三人の武士の姿があった。

 ひとりは真っ黒に焼けた肌の快活そうな青年で、興味深げに城内を見回している。

 もうひとりは薄くなった頭髪をしきりに撫でながら、何事かをぶつぶつと呟いている壮年の男。

 そして、最後には武骨な顔立ちの、いかにも猛将然とした若者が続いた。

 その顔に、春続は見覚えがあった。

「あれは――山縣長茂(やまがたながしげ)ではないか!」

 遡ること三年前、上月城に立てこもった尼子の残党を、毛利輝元の軍勢が襲撃した。そのとき、尼子方であったかつての城主山名豊国はすでに毛利に降っており、豊国に仕えていた春続と道誉も遺憾の念に歯噛みをしながら、戦いの趨勢を見守っていた。

 上月を攻める輝元に従軍していたのが、まだ齢二〇にも届かぬ時分の山縣長茂だ。もともと荒事よりも芸事の方が似つかわしい優面を、侮られぬようにと精いっぱいにしかめて戦場に赴く姿、あっぱれなものだと春続は内心で讃えていた。

 三年の月日は長茂の幼さをそぎ落とし、毛利の武士たる鋭さを錬磨したようであった。

 元春殿はやってくださったな、と胸裏で快哉の声をあげる。

「久しいな、長茂! 見違えたぞ」

「――中村春続殿」

 長茂は馬から降りて、春続の間で腰を折った。眉間に寄った深い皺は、決死の覚悟のあらわれであろうか。

 春続は微笑みかける。

「慇懃なところは変わらずだな。しかし、長い旅だっただろう」

「いえ、大したほどでは。それよりも、春続殿――」

「殿、と呼ぶべきはおれのほうだろう。ああいや、こんな言葉づかいでは失礼にあたりましょうな。なに、年のことなど気にされるな。新たな城主を仰ぐのに、年齢など関係ありますまい」

「はあ――いや、なにか誤解が――」

「ところで、このお二方は?」

 長茂に続いて下馬した、快活そうな青年と神経質そうな壮年の男。

 長茂は、「むう」と口をへの字に曲げながらも両名を紹介する。

「こちらは、奈佐日本助(なさやまとのすけ)殿」

「おう、よろしく!」

 軽い調子で青年は手を上げた。日に焼けた肌に、にっかりと笑うと白い歯がよく映える。

「ああ、貴殿が噂の海賊衆か」

 日本助は、但馬国を拠点とする国人だ。以前より因幡、但馬を支配していた山名氏に仕えており、主に山陰の海岸を取り仕切る有力な地方豪族であった。が、海の上に生きるその性質ゆえか、春続とはこれまで相まみえる機会に恵まれなかった。

「おうおう、みんなシケた面しちょるのぉ~。もっと気合を入れにゃあ」

「待ちわびていたのだ、貴殿らが来るのを」

「そげか? ほんなら、期待に応えにゃいけんなあ」

 そう言ってぎらりと尖った犬歯を見せる。

 快男児と聞いていたが、どちらかといえば野生児の趣がある。よく働きそうだが、どうにも危なげな様子の男だった。

「それで、こちらは塩冶高清(えんやたかきよ)殿」

「ま、そういうわけで、よろしく頼む」

 なにが「そういうわけで」なのかわからないが、高清はぺこりと頭を下げた。

 高清の名もまた、春続の知るところであった。

 日本助と同じく但馬の国人であり、彼を海賊衆と呼ぶなら高清は山賊衆とでも評すべき、山岳戦闘に秀でた智将だ。兼ねてから戦について語り合ってみたいと思っていた春続だが、まさかこのような形で実現するとは。

「ともにこの城を守ることができるとは光栄だ、高清殿」

 と賛辞を贈る春続だったが、

「ふぅむ。まあ、あまり期待はせんで下さいよ」

 頭をなでる高清の反応はいまひとつである。

「何を弱気な。貴殿の巧みな戦術は、かの秀吉すら評価するところではないか」

「だからこそ、ですよ。噂ってのはアテにならんもんでね。期待しすぎちゃあ、いざ結果が出なかったときにがっかりするでしょう? あたしゃあ、そういうのが一番嫌いでね。結局、人間、できることしかできねぇんです。ま、駒の一つとだけ思っておいてもらえりゃあ」

「…………」

 二の句を継げない春続であった。

 これが、本当に秀吉をうならせた山賊衆だというのか。

 どうにも印象の悪い奈佐日本助と塩冶高清に、不安が募る。

「ま、まあ、何はともあれ、これから鳥取城を共に守る仲間だ。よろしく頼む、奈佐殿、塩冶殿――おい、道誉、きさまも黙っていないで何とか言ったらどうだ」

 さきほどから突っ立っている道誉を肘で突くが、小難し気な顔をしながら喉の奥で「ううむ」と唸ると、

「おめぇさんこそ、ちょいと黙って人の話を聞いたらどうだ」

 などと釘をさしてくるのである。

「なに?」

「そこな山縣殿こそ、何か言いたげなんだがなあ」

 言われて山縣長茂を見れば、バツが悪そうに頬のあたりをかいていた。

「かたじけない、道誉殿。春続殿の熱意につい言い出すきっかけを見失ってしまっておりました――」

 長茂は神妙な顔をして何を言い出すかと思えば、

「――恥を忍んでお訊き申すが、われらの殿を見かけてはおられませんか」

「はっ?」

 虚を衝かれ、言葉を失う。

 殿? 長茂ではないのか?

「いや実は、先に鳥取城と周りの様子を見ておきたいと仰せられまして。今朝、早くにおひとりだけで賀露を発ったのでござりますが……この様子、まだ到着しておわせられませんな?」

「……はっ?」

 もう一度、阿呆のように繰り返す。

 きっと、自分はとんでもなく間抜けな顔になっているのだろうと思う春続だった。



     ■


 村人たちを総動員する田植えがようやく一段落すると、女たちは空いた時間を使い、山菜の採取に向かう。春の暮れにあたるこの季節は、ふきのとうやこごみ、ぜんまいなどを摘むことのできる最後の期間だ。やがて気候が夏に傾いてくに連れて、そうした山菜は成長しすぎて食べられなくなる。戦乱の世の中、食糧はいつ尽きてしまうかわからない。口に入れられるものは少しでも手に入れておくことが、この時代を生き抜く術だった。

 特に、今年は備蓄米が限られていた。

 去年の収穫は、決して悪いわけではなかった。年間を通して降雨量の多い山陰の地にあって、去年は幸いにも晴れ間が続いたため、米の実りはむしろ例年に比べ多かったほどだ。

 しかし年の瀬が近くなったころになって、商人が米を高値で買い取ると申し出てきた。なんでも関東は大飢饉だったらしく、稼ぐ機会なのだという。当時の鳥取城主、市川雅楽允はこの話に乗り、潤沢であった備蓄米を大量に売り払った。攻め寄せてくる魔王軍に対する軍備拡充のための資金源にするという名目だった。

 けれども、そんなことをして食いっぱぐれる者が出ては本末転倒なのではないか――という声が農民の間から上がったのも、当然のことだ。

 そういう経緯があって、村人たちには迫る戦への危機感と飢饉への備えのために、少しでも多くの食糧を手に入れておきたいという思惑があった。

 きよも、その必要性に駆られて山の中に足を踏み入れたのである。今年で四〇を迎えるきよだが、雪が解けて緑もすっかり深くなった山道を歩くのは慣れたもので、草鞋を滑らせることもなく獣道を進んでは、ウドやゼンマイを見つけて背負った竹籠の中に放り込んでゆく。

 ひとりではなかった。例年は隣近所の女たちがそろって山菜積みに出かけたものだが、今日は若い女ひとりだけを連れていた。

 お勝という、一六の娘である。



   

「きよさん、こちらにもありましたよ」

 白百合のごとくに細くしなやかな指が、一本のゼンマイをつまみ上げる。玉のごとく透きとおるような肌には、さわやかな汗が浮かんでいた。

「あんまり奥に行き過ぎられんで、よお滑るけな

 きよが声をかけると、お勝は「はぁい」と笑顔で応じつつも、そろそろとした足運びで進んでゆく。

 黒くつややかな髪を頭の後ろで束ねていて、一歩進むごとに軽やかに毛先が揺れている。華奢な体にはとても山歩きなど似つかわしくなく、見ていて危なっかしい。こんな山の中よりも商家か、もしくは城の中でしとやかに座っていた方がよほどふさわしそうな嫋(たお)やかさをもっていた。

 きっと、畑仕事もしたことがないのだろう、ときよは思う。問うたことはない。過去のことは訳があって伏せているのだろう。自分から話してくれるまで、無理に聞こうとは思わなかった。

 お勝は、きよの娘ではなかった。生まれも、おそらくは因幡ではないだろう。言葉にこの土地の訛りがなく、所作の端々にも田舎者とは思われぬ気品がただよっていた。

 お勝を家に迎えてから、間もなく二か月が経とうとしている。

 夜闇さえ白く染め上げる吹雪の中、お勝はただひとり、きよの家の戸を叩いた。憔悴しきり、無数の小さな傷を負っていたお勝を、きよと夫の源三郎は不問のまま匿った。

 この時代、戦で家を失い、国を追われ、家族や友さえ奪われることなど珍しくもない。ましてや美しい娘ともあれば、戦利品のように扱われ、襤褸のように使われる無情ささえ時代の波は許容していた。

 源三郎ときよの生活も、決して余裕があるものではない。が、戦でたったひとりの息子を失った哀しさとやりきれなさが、お勝を無条件で受け入れさせた。

 その選択に、後悔などしていない。

 むしろ、自ら進んでよく働き、村の皆からの評判もよいお勝を、源三郎もきよも、実の娘のように可愛がっていた。

 実は身分の高い家の生まれかもしれず、ちょっとばかり世間知らずなところもあるようだったが、ふたりを慕う素直さがまた、お勝の人柄のよさをあらわしていた。

 ひょっとすると、仏様がお慈悲でこの娘を遣わしてくれたのかもしれない。

 きよは、お勝の背を見ていると、ふとそんなことを思うのである。

「きよさん、見てください! こんなに山菜が――」

 背を向けていたお勝が、嬉しそうに声をあげたとき、

「あっ!」

 と、短い叫びが続けて飛び出た。

「どがしただっ!?」

 熊か、それとも猪が出たか――と慌てて駆け寄ってみれば、杉の大木の根元に、ひとりの男が転がっているではないか。

「……し、死んでいるんでしょうか?」

「見たところ、お侍さんみたいだけども……」

 うつ伏せになったまま微動だにしない男は、平服姿だった。腰には立派な太刀を佩いてはいるが、絡みついた青葉がその価値を台無しにしていた。そして、なぜか傍らにはひとつの丸い桶が転がっているのである。

 どうにも、鳥取城の武士ではないようだ。

 毛利の者か、それとも魔王の手先か。

 おそるおそるきよが近づいてみると、

「――――む」

 と、男が顔だけをわずかに上げた。

 きよとお勝は悲鳴を上げて飛びのいた。

「お、おお、生きとんなっただか……びっくりしたわあ」

「……す、すまない……」

 男は消え入りそうな声で言った。その顔は泥に汚れていたが、まだ若々しい武者だった。それから、さらに申し訳なさそうに言葉を続ける。

「……一口だけでいい……なにか、食べるものを、わけてはもらえないだろうか……」

「は、はあ」

 きよは、お勝と顔を見合わせた。

 世にも珍しい、武士の行き倒れである。

 善人なのか悪人なのかもわからないが、このまま見捨てるのも心苦しい。助けようと思った直後に、手のひらをかえして襲いかかってこないとも限らない。戦国は、人を獣にするのだから。

 が、こちらを見上げる男の瞳は、あまりにも人畜無害、というよりも武士とは思えない弱弱しさに沈んでいた。思い悩んだのもちょっとの間で、きよは不承不承、残していた握り飯を取り出すと、供え物をするように男の前に置いた。

「ああ、かたじけない……」

 男はゆっくりと体を起こすと、律義にも正座をして、さらには「いただきます」と手まで合わせてから、握り飯を手にした。二口ほどですべて頬張ってしまうや、案の定、のどに詰まらせたか胸元をどんどんと叩く。

 お勝がとっさに差し出した竹の水筒を受け取ると、くっとあおって、ふうっと息をついた。

「――おかげで生き返った。ありがとう」

 清流のような眼で、ふたりを見た。

 そして佇まいを正すと、深々と頭を下げるのである。

 これには、きよもお勝も仰天した。

「や、やめてつかあさい、お武家様がそがぁな……」

 恐縮のあまり、こちらまで平伏してしまいそうになる。

 しかし、たじろぐ二人を気にかけるふうもなく、男は微笑んだ。

「この近くに村があったと思うが、この米は、そこでつくったものだろうか?」

「へ? え、ええ、そげです、あたしらの住んどる村ですけども……」

「そうか――うん、いい米だ。やはり、人柄がよい土地には質のいい作物ができるのだな」

 穏やかな顔だった。男には、戦場で生きる者に特有の荒々しさが感じられなかった。それからお勝に視線を移し、「おまけに美しい女性も多いときた」と口にしたときも、下心の欠片さえ匂わせず、ただその事実を褒めただけだという着飾らない感じが、得も言われぬ安心感を与えてくるのだった。

 だから、「あなたの娘か?」という男の問いに、きよは「いいえ」と素直に返していた。

「直に血が繋がっているわけじゃあありませんけれども、ええ、本当の娘と同じようにかわいがって暮らしとっですが」

「そうか。うん、そうか」

 しきりに男はうなずき、小さく「よいな」とつぶやいた。

 ゆったりと立ち上がった男の背丈は思いのほか高く、平服の上から見てもわかる引き締まった肉体は、言葉の印象とは裏腹に鍛え抜かれた武士の身体そのものだった。戦場の経験を積んでいながらも、立ち居振る舞いからはまったくその気配を感じさせない。その不釣り合いな感覚が、男にはまた似合っているのだった。

「お二人は、まだ山奥へ?」

「いんや、そろそろ帰ろうかと思っとったどことですけぇ。昼もだいぶ過ぎましたけなぁ」

「では、ご同行させてもらえないだろうか。一飯の恩を返さなくては。熊が出たときには喜んで囮になろう」

「いやあ、そげなことまで心配してごしならんでも……そもそも、どうしてお武家様がこがぁな山ん中に?」

「うん?」男が急に明後日を向いた。「ああ、それは、まあ、複雑な事情があってのことで……」

 どうにも歯切れが悪くなる。そんな彼をたしなめるかのように、

「嘘ついてんじゃねーよ、道に迷ったんだろ」

 と、幼い声が聞こえてきたのである。

「お、おい、於丸(おけまる)……」

 たじろぐ男をよそに、どこからか響く声は弾劾を続ける。

「誰だったかなー、先にひとりで周りの様子を見に行きたいって言ったのは。そっちじゃねーって何度も言ってんのに、無視して進むから道に迷ったんだろがい」

 足元だ。男の足元に転がっている小さな桶から、悪戯めいた童の声がわんわんと響いてくるのだ。

「素直に言えよっ、下りる道がわかんないから連れてってくださいって」

 そのとき、桶がくるりと回った。

 はじめ、きよとお勝はそれを亀だと思った。四本の脚と頭が、桶のような甲羅からぴょこんと突き出しているのだと。けれどもよく見てみれば、桶はそのまんま桶であったし、突き出た頭と脚は毛むくじゃらであったのだ。

「た、狸……?」

 ――にしか、見えない。桶に入った狸、あるいは狸の生えた桶。



       

 どっちでもいいが、とにかくそんなアヤカシが、男の足元ではしゃいでは罵詈雑言を吐いているのであった。

 驚愕、というかただ唖然とするきよとお勝の前で、男と化け狸は悶着を続ける。

「於丸、武士には矜持というものがあってな、どうしても本当のことを告げられない場合が――」

「腹を空かせてぶっ倒れてたくせに、なーにが矜持だこのバカチン!」

「うぐっ」

「だいたい、腹が減ってんのはこっちだって同じだってんだ! それをなんだ、自分ひとりだけ飯をもらいやがって。慈悲も涙もねーヤロウだな」

「い、いや、さすがに人前でその姿を出させるわけにはいかないだろう」

「フン、どの道、城に入りゃあ隠しておくわけにもいかねーんだ。それに、これくらいのことで――」

「あ、あのう」

 と、たまらず割って入ったのはお勝だった。

 山の中に武士がひとりでいた理由、人語を話す狸の怪異、その他もろもろ聞きたいことは山ほどあったが、すべてをひっくるめて絞り出した問いは、

「あなた様は、いったい……?」

 というものだった。

 男は天を仰ぎ、それからうつむいたかと思うと、観念したかのように苦笑して、

「不肖、吉川経家(きっかわつねいえ)と申すものだ。鳥取城に行きたいのだが、この於丸が言うとおり、道に迷ってしまった……恥を忍んで、もう一度お願いしたい。下山するまで同行させてはもらえないだろうか」

「はあ、鳥取城は久松山ですが……」

 きよとお勝は顔を見合わせた。

「お武家様、ここがその久松山ですよ」

「――なんと」

 男、吉川経家は目を丸くした。

「この尾根を上に伝っていけば、確か、山上の丸の裏に出たと思いますが」

「――なんと」

 経家は、もの哀し気に繰り返した。

 近頃、鳥取城では主君の入れ替わりが相次いだ。様々な理由があってのことだが、頼りがいのない武士とも呼べぬ者だったことが原因だったと村人たちの間では噂になっている。この吉川経家という男も、まさかそんな頼りない武士たちのひとりなのだろうか――



       

 言葉にこそ出さなかったが、ふたりの間ではそんな不安感が漂っていた。

 そして、遥かな遠くから聞こえてくる、

「……――殿ぉぉぉ~~~~! とぉぉのおおおおおお~~~~~!」

 という悲鳴じみた呼び声が、不安感にいやな現実味を帯びさせるのであった。