Tool Box of Microstoria 2015/6/27 城下町都市の近代化と近代和風建築
【城下町的特質と近代都市化の様態】 元和3年、池田光政の襲封によって、鳥取藩は因幡・伯耆二国を合わせて32万石の石高の大藩となった。光政との国替で入国した池田光仲もこの藩領を引き継ぎ、以後明治維新まで、全国有数の大藩として継承された。そのため、他地域においても、その藩主の居所である鳥取城下町は「繁華の地」と認識されていた。元和5年に池田光仲によって造成がはじめられ、元禄頃に一応の完成をみたと思われる鳥取城下町は、下記のような特徴を持っている。
- ① 城郭周辺を枢要と位置づけた全体プラン(城山である久松山を中心に全体が計画されている)
- ② 当時の社会制度を前提とした区画設計(城郭附近に重臣を、惣構にあたる袋川の内側に中級家臣の屋敷を配置し、町人町を武家屋敷地で取り囲む形としている。 町人町は京都にならった長方形グリッドで構成されているが、武家屋敷は格式に沿って不定形な区画となっている)
- ③ 町中で活動する人々の動線を管理しやすい構造(惣構を形成する袋川、重臣の居住地と町人町を区画する薬研堀の存在によって、それぞれの区画間の移動を制限。 町内は一町単位で木戸を設ける。薬研堀より内側には惣門を通らなければ入れない。城郭側から見通しが効く街路構成で、必要な場所には升形状の曲がり角を設定)
このような基本プランは江戸時代を通じて不変であり、周辺村落の都市化による膨張はみられるものの、基本的なありようが大きく変わることは無かった。鳥取城下町は藩政期の藩都として、安定した繁栄を保っていた。鳥取城下町をとりまく状況が一変するのは、明治維新後のことである。藩政の拠点であること自体を成立基盤とする鳥取城下町は、制度面での廃藩置県・島根県への併合などによって、一時急速に衰退してしまったのである。明治政府の近代化政策のありかたも、鳥取をはじめ日本海側諸都市の衰退に拍車をかけていた。西欧列強に対抗するため、産業面での近代化を急いでいた明治政府は、先進地の産業開発を優先する政策をとった。具体的には「偏った地域への資本投入」となってあらわれたこの政策によって(交通網の発達を妨げる地形上の不利もあったが)、山陰地方は日本全体の近代化の流れから外れるようになり、明治後期には「裏日本」と呼ばれる後進地域となっていったのである。鳥取県の再置によって一応は成立基盤を回復したとはいえ、このような状況下で、鳥取城下町の近代都市への変化は、望むと望まないとに関わらず、緩速なものにならざるを得なかった。それは、結果的には城下町的特質を現在まで温存することにつながっているのである。先にあげた①~③のような城下町的特質のうち、②城郭周辺への中枢機能の集中 ③社会制度に基づく区画形態 といった点は、明治以降もほぼそのまま継承された。 明治の後期までに、敷地面積の大きい重臣の屋敷が県庁や裁判所といった公共機関に転用される一方、町人町は商業地に、中級武士の屋敷は住宅地に転換されていったが、これらは区画形態を維持しつつ機能を読み替えるものに過ぎず、前代の建築物も、当所はその多くが継承されていたものと思われる。この状況にいくぶんか変化が表われるのは、明治40年に至って、山陰線が開通してからのことである。城下町時代の目抜き通りであった智頭街道に対して、駅と県庁を結ぶ若桜街道の役割が相対的に重くなったためである。一方、江戸時代後期においても既に機能を失いつつあった③の様な町中の動線を制限するとする仕組みは、藩の消滅によって必要がなくなり、近代化のなかでむしろスムーズな動線の確保が課題となったため、惣門の撤去等の対応がとられたようである(時期等は未詳)。明治〜大正時代、一般的な地域住民は、端的にいえば「いつまでもこうした城下町的寂寞の状態は永くは続くまい・・・町の目抜きの商店の店構へは皆人造石の洋風となつて了ふでありませう、今に智頭街道より若桜街道街道が目貫にならう、何處も彼處も道路もアスハル塗こうした都会的の華やかな文化が滔々と侵入して来て、陰鬱な町を表面でもいゝ明るくしてくれる・・・」といったような認識をもっていたようである。現状は「城下町的寂寞」状況にある鳥取の町は、次々と進入してくる「都会的の華やかな文化」によって「表面でも」明るくなるだろうと言うのである。この言説に代表されるように、当時の鳥取の人々の多くは、道路や建築物の仕様といった表面的な変化に対する認識はあっても、都市構造に対する問題意識は希薄であった。この時期の鳥取では、「城下町的寂寞」から「都会的の華やかな」都市への緩やかな変化を始まっていたが、城下町として完成された骨格をもつ故に、都市プランそのものの近代化については等閑視されている面があった。
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