天正九年一月

 魔王殿は狂っている。

 いつからだろうかと思い返してみれば、なるほど生まれたその時から、彼は狂う運命であったのかもしれない。
 ならば、その狂った主に仕え続けるおれは何なのか、と羽柴秀吉は自問する。


 魔王は己の主である。その信条は、これまでともに戦国の世を駆け抜けてきて、一度も揺らぐことがなかった。魔王は完璧でもなければ、完全でもない。ときには命令に納得できないこともあった。面と向かって反対し、従わなかったことも一度や二度ではない。だが、それは反逆ではなかった。目指す先は同じなのだ。太平の世。戦いのない国。ただ歩もうとする道が違うだけの話に過ぎない。そういう意味では、確かに仕える必然性はないのかもしれなかった。魔王を主としなくとも、秀吉には己の道を敷くための力があった。そうしなかったのは、魔王と秀吉、ともに若いころから歩んできた互いのことを知り尽くしていたからだろう。身分の違いこそあれ、主というのは建前で、秀吉にとっては友でもあったのだ。

 つまるところ、おれはこいつが心配なのだ、と秀吉は結論する。勢力を拡大し続け、間もなく国土の半分を制圧しようかという男に、敵は多い。それゆえ、ときに無茶な命を下す。敵という敵を遠ざけようとする。そこから生じる反動、引き絞られた弓が、ちょっとでも手を離せば驚くような力で元に戻ろうとするその作用に似た、いわば跳ね返り。それが秀吉は心配であるのだった。
 ちからの使い方を誤れば、刃は自分に返ってくる。
 そうならないよう忠言するのが、狂った主に仕えるおれの役目なのだ。

 そう自らに言い聞かせて、秀吉は渋面を作り、首を横に振った。

「殿の言い分はわかる。確かに、鳥取城は因幡以西へ進出するためには、手に入れなければならん。国の境、交通の要所にある、戦略的に見ても落とす価値のある城だ。しかし、それならばやりようはいくらでもある。ひとり残らず討ち果たせ、などというのは横暴に過ぎる命令だ」

 ここまで面と向かって刃向かえるのも、秀吉だけだろう。他の者ならば魔王の一瞥に身を強張らせ、失言を悔いるに違いなかった。
 そして秀吉の言葉だからこそ、

「まあ許せ、わたしは魔王なのだから」

 そう軽口を叩きながらも、答えを返すのだ。

「どうにもわたしに降るのを認めたくない連中がいるらしい。その気概は称賛に値する――が、わたしは裏切りを許せない。わずかでもその可能性があるのなら、芽が出るまえに摘まなくてはならない。もう背中から刺されるような思いはごめんだよ」
 魔王の瞳にはかすかに涙が浮かんでいた。これまで彼を裏切った者は数えきれない。その脳裏に過る姿は誰のものであろう。
「実に憂い世の中だ。生きることがこうもつらく苦しいものだとは、母上の腹の中にいるときには思いもしなかった」
「それが戦国というものだ、殿」
「ああそうだ。そういう時代に生まれてしまった。誤ったことに、ね。そしてわたしは、だからこそ魔王になることを強いられた」

 わたしはきみが羨ましいよ、と言って、魔王は立ち上がる。

 いつの頃からか、魔王は年をとらなくなった。むしろ若返りつつある。もとから小柄で細身ではあるが、いよいよもって男女の境目を超越しようかというほど、魔的な美しさを帯びていた。
 背中に流した長い髪は漆染めの絹のようで、目鼻立ちは整い、肌は真白く、南蛮から取り寄せたという白銀に輝く着物を纏うその姿、到底日ノ本の人間には見えない。

 まさに魅魔の王、己が称するところのものに近づきつつある。

「きみはこの時代に適している。無秩序、混沌、血で血を洗い、争いで争いを平らげるこの時代が。農民の出自でありながら、きみはわたしと共に歩むことを望んだ。わたしがきみの立場だったら逃げていたよ。争いなどとは無縁の道を歩みたかった」
「戦わねば生き残れん、そういう世の中だからな」
「果たして、そうだろうかな」

 魔王はくつくつと笑う。

「自覚しないまま、わたしは不条理の中で生きることを強いられていた。きみが羨ましい、と言うのはその点においてだよ。きみには選択する権利があった。逃げようと思えば逃げられたはずだ。刀など物騒なものを手に持たず、土を耕していればよかったんだ。だがきみは、この下克上の時代を利用することを選んだわけだよ。あくまで戦い、生き抜くためにね。わたしは、ふむ、どうだ? 物心ついたときには、すでに城主の地位に据えられていた。ほかの道を選ぶ自由などあっただろうか?」
「誰かの下につくという選択はできたはずだ。人の上に立つのではなく」
「幼いころのわたしは、極めて微妙な立場にあった。美濃の斎藤家との調略に使われ、お濃をあてがわれた。あれはわたしを殺すために送られてきた女だ。わたしが本当にうつけだと思われていたら、後ろから刺されていただろう。そうならないためには、人の上に立つしかなかった。本当はうつけを演じ、戦から遠ざかりたかったのだが……やはり、わたしにとっては生まれ持った環境がすべてだった。なりたくて魔王になったわけじゃあない」
「そうだとしても……おれには認められん。敵という敵すべてを相手にするには、人の命は短すぎる。鳥取城には、無血開城を迫るべきだ」
「まあ、そう結論を急いではいけない。兵は神速を貴ぶが、ときに速さは身を亡ぼす。人の上に立つわたしたちは、物事を慎重に考えなければ」

 慎重に考えた結論が、虐殺か。秀吉は心中で毒づいた。

 そこは安土城の天守であった。ほかでは滅多に見ることのない総石垣の上に建つ城だった。天正四年に着工し、完成するには丸三年を要した大規模な城砦は、魔王の居城でもある。
 天に向かって高々とそびえたつその城は、周囲の国々を睥睨し、圧倒している。その天守で、普段から魔王は寝食をとっていた。八方に天眼をめぐらし、いつどこで自分に牙を剥く者があらわれるかと怯えながら。
 天守の内装は、そんな魔王の恐怖心を覆い隠すためか、徹底的に暗さを排していた。調度品の数々は国内では見られない南蛮由来のもので、床には純白の絨毯が敷かれており、壁も天井も白く塗られている。夜も更けた頃だというのに、天井や室内にいくつも燭台が備わっているせいで、まるで昼間のように明るい。

 部屋の中央には、これもまた輸入品である円卓と椅子が置かれていた。秀吉たちはその四本足の椅子に腰かけていた。脇息や床几を、魔王は好まない。床には決して座ろうとしない。彼はとにかく人と同じことを嫌った。そうでもしなければ、世間に呑まれてしまうというかのように。

 魔王は椅子から立ち上がり、箪笥から取り出した器を卓上に並べた。きれいな、氷のように透き通ったびいどろ(グラス)だ。

「ずいぶんと洒落た湯飲みだな」
「南蛮の商人からもらったものだ。実に精緻にできている。茶よりは酒を飲むのにいい」

 そのびいどろの中に、魔王は赤い液体を注いだ。あまりに濃い色に、秀吉は思わず眉をひそめる。  
    



「ふふ、そう驚かなくてもいい。これも海の向こうから取り寄せた酒でね、葡萄からつくったものだそうだ。珍陀酒(ちんたしゅ)というらしい」

 卓上に、紅を満たしたびいどろが、みっつ。

「さあ、遠慮することはない」

 勧められるがまま、ちろりと舌で舐めてみる。酒とはいうが、普段たしなむそれとは似ても似つかない。想像もしなかった酸味と渋味。秀吉は思わずうなる。

「あっは、きみの口には合わなかったようだね」
「……ひどい味だ。渋柿の比ではないな。南蛮人はこんなものを飲んでいるのか」
「どうだろう、肉料理との相性がいいと思わないか。今度、試してみよう」
「いや、いい。遠慮しておく」
「そう連れないことを言わないでくれよ、秀吉」

 魔王の口元は緩み、微笑んでいるようにも見えたが、その本心は真逆であることを秀吉は知っている。常に瞳孔が開いた魔王の双眸――怯えと憂い、いかなるときでも自分以外のすべての存在に対して、強い警戒心を隠すことのできない、弱い瞳。

 その視線が、もうひとりの人物、先ほどからその場にいながら石像のように固まっていた男に当てられる。

「きみも、ほら、一口だけでいい、味見をしてみてくれ」

 差し出された三つ目のびいどろを、男は強張った顔で受け取る。額に滲んだ汗はいよいよ頬まで垂れて、手元で震える真紅の液体に落としたかすかな溜め息は、次に自分の身に起こるであろうことを空想してこぼした儚みだろうか。

 ここで断れるならば、男はこの場にいなかった。数秒の沈黙ののち控えめに液体を口に含むと、くっと喉を鳴らして、それから眉と鼻に深いしわを寄せた。

「……渋うござります」
「ふうむ、秀吉とおなじ顔だね。やはり、この国には向いていない飲み物なのかな」
「左様に、存じまする」

 男は、まだ自分が息をしていることを確かめると、泣き笑いの顔で言った。

 彼の名は、山名豊国。つい先日まで鳥取城の主であった男。

 豊国をこの場に呼んだのは魔王自身だ。が、その理由を知らされていない豊国は、生気の欠片もない面持ちで口を閉ざし続けていた。この首が刎ねられるのはいつか、数瞬ののちか、それとも一刻、一日、いや一週間あとのこと……? 齢まだ三〇を過ぎたばかりだというのに、さらに一〇は老け込んで見えるかんばせは、そんな戦々恐々たる胸の内を語っている。

 哀れな、と秀吉は思う。斬るならばすでにやっている。殿は、いや魔王は、斬るべき者を前にして堪えていられるほど、心が強くないのだから。

「それで、なんの話だったかな――ああそうだ、因幡の」
「何度も言うようだが」と秀吉。「これは戦だ。目的は城を手中に収めることにある。敵の虐殺ではない」
「そのとおり、これは戦だよ。わたしの、戦だ。だからなおさら、何度も言うようだけれども、敵は生かしておけない。ひとり残らずね」

 魔王は静かに狂気を吐き出す。

「彼らにも一度は慈悲をくれてやった。山名君のように、こちら側に付く選択肢を与えてやったにも関わらず、差し出した手を振り払った。命を懸けて、このわたしに抵抗するつもりだ。仮に見逃せば、再び刃を研いでわれわれの前に立ちはだかるだろう。かの毛利も、かつて尼子にはずいぶんと手を焼いたそうじゃないか。同じ歴史を繰り返すのは凡愚の所業だよ」
「道理は、そうだろう。しかし戦の作法に反する。武士としての矜持と、人間としての尊厳を履き違えてはならん」
「これは正義のためだ」
「正義だと? 魔性の王が異なことを言う」
「正義を語る権利を持つのは善性だけとでも? きみにしてはずいぶんと感情に振り回されているね」
「城の守りには、領民も加わっていると聞く。罪なき民草を殺めることが正義か?」
「天下布武のためには、必要な犠牲だ。そして、わたしへの反逆に手を貸す以上、それは大きな罪でもある。太平の世を遠ざけているという一点において、裁かれなければならない」
「この国を根絶やしにするまで気が済まんかよ」
「秀吉。きみは、なんのために戦っているんだい?」
「大義だ。太平の世をもたらさねばならん。すべての武士は、大義のために戦うべきだ」
「大義、ね……言葉遊びをやるつもりはないよ。それこそ大儀だから」

 魔王は話を有耶無耶にして、酒とともに胃の中に流し込んだ。真っ赤な舌で唇をちろりと舐める。その所作が蛇を連想させる。獲物を狙う、狡猾な、毒蛇。
 憤怒とも焦燥ともつかぬ激情が、秀吉の中で膨れ上がってゆく。魔王は命令を曲げるつもりはないようだ。

 かつては、こうではなかった。毛利とは友好的な関係を築いていたはずだった。少なくとも、先代の元就の時代までは。

 永禄十一年、魔王は天下布武の大義名分を得るために、十五代将軍足利義昭を奉じて上洛した。時代はすでに乱世の渦中にあり、守護たちは自国を奪われまいと次々と京を離れ、幕府の支配力は失墜の一途をたどるばかりであった。それでも「幕府のお墨付き」という建前に秘められた権威だけは失われず、将軍という立場の威光にあやかろうと京を目指す大名は後を絶たなかった。魔王もそのひとりで、幕府の再興を夢に見る足利義昭に付け入り、ともに京へと上ることで恩義を売ったのである。

 実際、義昭は魔王をよく慕っていた。自らの思い通りにならない天下に対し、それでもなお、とあがき続ける魔王の姿に感銘を受けたのであろう。年が近かったことも幸いし、ふたりの間には利害関係を越えた信頼関係が育まれていた。まさに、秀吉と魔王のように。

 将軍と“室町殿御父”と呼ばれた魔王との蜜月は長く続かなかった。幕府という組織を再興し、従前の支配体制をふたたび稼働させようと画策する義昭にとって、自らの武を布くことで天下を平らげんとする魔王の存在は、思いがけぬ障壁となった。
 目指す先が同じ太平の世であろうとも、歩む道が違えば刃を交えることもあるのが戦国だ。魔王は、自らを慕う義昭を敵に回そうなどとはつゆにも思っていなかっただろう。魔王を危険視し、敵に回す決断を下したのは義昭の方だった。

 魔王を討滅すべし。

 武田信玄、本願寺、朝倉義景といった周囲の大名たちが、魔王に対して一斉に牙を剥いた。その中には浅井長政、松永久秀など、かつて魔王の側に立っていた者たちも含まれていた。天下のすべてが敵に回った、絶体絶命の状況で――狂奔し、あらゆる追撃を退けた魔王の心中には、いかほどの悲憤が燃え盛っていたのであろうか。
 あれほどまでに魔王を慕っていた男が、いまや全霊をかけて魔王の首を狙っている。

 裏切りの時代。下克上の時代。
 その時代の波が、魔王をさらに狂わせた。
 狂った魔王が、返す刀で時代を狂わせる。

 狂乱の累進構造。それが戦国の本質であった。

 歪な螺旋に導かれて、将軍足利義昭は魔王を襲った。幾度となく。そのたびに魔王は退け、和睦を促し、関係を修復しようと涙ぐましい努力を重ねた。

 まだ、義昭は敵ではない。まだ、裏切り者ではない。

 その想いのことごとくを反故にし、義昭は遁走を重ね、ついには毛利の庇護下に入ったのである。あろうことか、魔王がこれまで有効的な関係を築いてきた西国一の大名の下に。

 すでに元就はこの世を去り、子の輝元が一族を率いていた時世。輝元にとっては、かねてより危険視していた魔王討伐の許可証を受け取ったに等しい。魔王か、時の幕府か。両者を天秤にかけ、輝元は魔王に刃を向ける判断を下した。合理的な決断だった。その輝元の合理性が、燃えさかる魔王の合理性に油を注ぐ。

 戦国の世にいち早く終焉をもたらさんとする魔王の合理性――至極単純なたったひとつの真理。

 魔王は、裏切り者を、赦さない。

 ――但馬、播磨以西、毛利が支配する国々を落とせ。
 西伐を、己の右腕たる羽柴秀吉に命じたのである。

 かつて比叡山を焼き討ち、いまは高野山を狙う魔王の心中に、慈悲の二文字はない。静かな狂気を全身にみなぎらせ、ただ己の憂慮を振り払わんがため、日々「敵」の殲滅にのみ心血を捧げるその純然な残虐性たるや――もはや業魔の王と呼ぶほかにあるまい。

 ここまで彼を増長させたのは、おれだ。
 おれが止めなければならなかった。魔王が、本当に人の心を喪ってしまう前に。

「そう怖い顔をしないでくれよ、秀吉。まさか、わたしのことが嫌いになったのかい?」
「好いた好かんの話ではない。毛利攻略を任されたのはおれだ。すべての戦はおれの責任において行う。そういう取り決めだっただろう。それとも、殿の方こそ、おれが信用ならんのか?」
「馬鹿なことを言わないでくれ。ここまでともに歩んできた仲じゃないか? ともかく、せっかく山名君を招いたんだ。どう攻めるか、まずは彼の話を聞いてから決めようじゃないか」

 ここで再び、哀れな元城主に焦点が当たる。

「山名豊国君、きみはわれわれに降伏した。それはどうしてかな?」
「……ひとえに、わが妻と娘のことを思うたがゆえ」

 地を這うような声で、豊国は答えた。

「そう、秀吉の人質作戦が功を奏したわけだ。けれども、家臣たちはきみに従わなかった。同じように人質を取られていたのにもかかわらずね。実に冷たいことじゃないか」
「それがしの器量が及ばなかったせいでありましょう」
「ふむ、城主の器か」魔王は親指の爪をかりかりと噛む。「聞けば、きみもかつては尼子に仕えていたそうじゃないか。尼子から毛利に、毛利からわたしに、か。ころころと鞍替えをするきみに、家臣たちも嫌気がさした、という理屈かな。理解できないでもない。ないけれど……」

 魔王はいちど目を伏せ、そして豊国を見た。その瞳から、煌、と真っ赤な光が瞬いたように見えたのは幻覚だっただろうか。

「彼らには、勝算がある。そうだろう? 秀吉を相手取ってもなお生き残るつもりだ」
「それは……家臣たちとも、話していたことでござります」

 氷柱から水が滴るように、とつとつと、豊国の口から言葉が転がる。

「鳥取城はもはや孤立しており、ひたすらに籠って助けを待つばかりでありました。しかし、吉川元春殿は後詰の兵をすでに用意しており、伯耆より駆けつける手はずとなっておりまする」
「吉川元春。たしか、元就の次男坊だったかな、安芸の吉川家に嫁いだという……で、その数は?」
「五千、あるいは一万とも。石見、安来、それから日野からも家臣や国人衆を集め、さらには日本海側で、兵糧船の算段を付けているところでありましょう」
「なるほど、それは手ごわい。実に危ういところだった。きみの情報がなければ、さすがの秀吉でも負けていたかもしれない。ねえ?」

 唇の端をきゅっと吊り上げる魔王。秀吉は仏頂面のまま、嘆息ともうめきともつかない低い声を喉の奥で鳴らした。魔王は、勝算のことではなく、暗に『ほら見たことか、相手にはこちらに刃を向ける準備がある』と秀吉に釘を刺したのだ。

 こちらとて同数、いやそれ以上の兵を集めることは不可能ではない。
 因幡の各城は、鳥取、吉岡、大崎といった日本海側の城をのぞき、およそ秀吉の手中にあった。とくに但馬や播磨へと続く交通の要所となる私部、用瀬、若狭鬼ヶ城を落としているのは大きな強みになる。
 また、因幡と伯耆の境に位置する羽衣石城の南条元続も、かつては毛利の将であったが、いまや魔王に加担する側だ。つまりは、まったくの四面楚歌。山名豊国が鳥取城で白旗をあげたそのときには、すでに包囲網は形成されていたのだ。因幡からの後詰は確かに心強いが、逆に言えばそれがなければ勝機は無に等しい。後詰の軍が、堅牢な守りを誇る羽衣石を超えることは容易でない。その大局を悟ったことも、豊国が降伏した一因であったかもしれなかった。

 ともかく、豊国の情報の裏は取らねばならないが、おそらくは正しいだろう。まっとうな策としては、他には考えがたい。南条元続の離反や吉川元春の援軍が予想をはるかに上回る大軍勢でない限り、こちらの勝ちは揺らがない。

 それにしても――

「山名殿、心は痛まないのか、易々と手の内を明かすなど。城に残っているのはかつての家臣であろう」

 そう、問わねばならなかった。さきほどの魔王の言は豊国も聞いていたはずだ、ひとり残らず討ち果たせ、と。豊国の自白は、虐殺の命令に肩入れするに等しい行為。そこに果たして信念は、大義はあるのか。

「それがし、は――」

 豊国は生唾を呑み込んだ。

 そして秀吉に向けられた、豊国のまなざし。
 背筋の凍る色が、そこにあった。

「――死にとうござりませぬ。願いは、ただそれだけ」

 魔王と、同じ目をしている。怯え、憂い、生き残りたいと願い、ゆえに癲狂(てんきょう)に至る、戦国の病。

「そう意地悪なことを聞くものじゃない、秀吉」

 魔王が指先で机をたたく。

「山名君もまた、時代に適した生き方をしている。きみとは方向性が違うが、とても理にかなっていると思うよ。誰だって死にたくはない。だから強い方につく。わたしを強いと考えて、下ってくれたんだ。丁重に受け入れなければね。彼は敵ではないのだから。もっとも――尼子、毛利に続いてわたしを裏切ろうものなら、相応の報いを受けてもらわなければならないが」

 心配はいらないね、と豊国の肩に手を置く魔王。豊国は言葉もなく、ただ頭を垂れるばかりであった。

「ともかく、情報はありがたいよ。戦においては非常に強力な手札になる。孫子も言っている、兵は詭道なりと。山名君の服従は、わたしにとって実に幸運だった。これで西伐が大きく前進することになるだろう――ところで、これは余談だ、わたしの独り言だと思って聞き流してくれて構わない」

 魔王は身を乗り出した。机をたたく指が速くなる。

「孫子は、同じように間者の扱いを五種にわけて説いている。その中に“死間”というものがあるのだが」

 豊国はうつむいたまま、呆然と耳を傾けている。

「自らの命を賭してでも敵方に偽の情報を流す、という手だ。武経七書のひとつ、『李衛公問対』にもこんな言葉がある――周公の大義は親を滅す。いわんや一の使いの人をや――孫子は間者を用いることを下策だと言っているが、周の武王の次兄、周公旦は大義のためとあらば兄弟をも手にかけたという」

 大義、と口にしたところで、魔王は秀吉をちらりと見やる。

「それが戦だというのだから、間者ひとりの命程度がなんだというのだ――とまあ、そんな意味合いの言葉だ。いや実に、妙な親近感さえ覚えてしまう説話なのだが、しかし、あいにくとわたしに死間は通じないよ。相手の目を見ればわかる。死んででも勝とうとするものと、あがいてでも生き延びようとするものの目は、明らかに違うのだから」

 ここにきて、豊国はようやく魔王が何を言わんとしているのか勘付き始めたらしい。真白だった顔が、みるみるうちに青ざめてゆく様は、悲哀を通り越して滑稽ですらあった。

「ご、誤解にござります、それがしは、欺こうなどと――!」
「ああ、そう怯えないでくれ。大丈夫だ、心配しなくてもいい。さあ落ち着いて、息を深く吸って、そして吐くんだ。心を静めてくれ。言っただろう、命を懸けているものは目を見ればわかる、と。山名君、きみは、違う。きみは心から死にたくないと願っている。そのまごころに偽りはないと、わたしは信じているよ。しかし――」

 厳しい視線が、秀吉に注がれる。

 ――魔王め、悟っていたか。
 秀吉は、椅子の脇に立てかけていた刀の柄頭に手を置いた。

「たとえ山名君の降伏が本心であったとしても、それを利用しようと目論む輩は必ずいる。きみの命を軽んじて、きみの命と引き換えに、小さな勝ちを手に収めようとする愚か者が、ね――わたしには解せない。人は、どうして命を投げたがるのだろうか。なにものにも代えがたい、たったひとつの宝物なのに」

 魔王は言外に、斬り伏せろ、と告げている。

 いつからであったか――少なくとも豊国が鳥取城の戦略を語り始めたころから、天井裏に潜む何者かの気配があった。

 いわゆる乱波(らっぱ)――敵の間者であろう。物音ひとつも立てることなく盗み聞くその潜伏術は大したものだが、しかし、いささか意識を魔王に向けすぎた。鋭すぎる意識、こちらに注がれる気配は、五感を超えたところで魔王の知覚に触れてしまったのだ。
 秀吉も気づいていたが、このまま泳がせておこうと考えていた。天井裏に潜む乱波が毛利方ならば、ここまで話した内容に新しい事実は含まれまい。今後、秀吉がどのような手法で鳥取城を攻めるのかをこの場で明かす心算はなかったから、乱波をこのまま逃がすことで逆に「生間」を利用することも――つまり、偽の情報をこちらから掴ませることも可能であった。また、仮に毛利の手のものでなくとも、こちらの動向を掴んでいるという事実を利用して、二重三重に策を弄して敵に混乱を招く、という情報戦を仕掛ける一手を打つこともできた。

 が、魔王はそうした“遊び”を一切許容しない。敵あらば斬る。敵を斬らぬ道理はない。実に単純明快な行動原理、魔王が自称するところの正義をもって、秀吉に殺害命令を出しているのである。

 できることなら、斬りたくはない。
 だが拒否すれば、どのみち魔王自らが手を下すことになろう。

 ――致し方あるまい。    
    

 秀吉は鯉口を切った。音に反応し、天井裏の気配が動いた。

 刀を抜き、天井に向けて刃を振るう。

 都合三閃、鈍色の剣気が飛んだ。
 いや、正確には天板に刃を置いたのだ。体術の極意、いわゆる縮地――対象との距離を一瞬にして零にする術を、秀吉は刃そのものに応用したのである。

 天井に三角形の線が走る。相手の足元を過たず切り抜いた一刀。木片と埃が舞い散り、その中にひとつの影が降り立った。

 目元以外をすっぽりと覆う、黒染めの装束をまとった小柄な男。

「――伊賀者、か――!」

 魔王の声は上ずっていた。

     ■

 四肢で受け身を取った乱波は、屹然と顔を上げた。

 魔王の言葉のとおり、彼は伊賀の土豪、百地丹波に仕える乱波であった。名は、黒馬兵治。伊賀十二人衆の次席に名を連ねる、伊賀きっての間者である。魔王の居城、安土に潜入したのも、彼を重用する十二人衆の指示によるものにほかならない。

 さかのぼること二年前、天正七年。魔王の子息率いる軍勢が、伊賀の国に攻め入った。世に言う天正伊賀の乱である。

 当初、小国の伊賀は敵とすらみなされていなかった。道に転がる軽石と同じようにあしらわれるだけだと思われた。が、いざ刃を交えてみればどうか。八千の魔王の兵に対し、伊賀は半分にも満たぬ数で立ち向かい、これを撃退してみせた。潜伏、奇襲、攪乱、地の利を味方につけた奇抜な戦法に、魔王の兵はなすすべもなく敗走したのである。
 以降、晴れて「敵」と呼ばれるようになった伊賀の国は、魔王の臆病眼の当てられるところとなった。雪辱を果たさんとする魔王の動向を監視するため、乱波の精鋭たちが安土に送り込まれた。黒馬兵治はそのひとりだ。

 が、ここまできてついに暴かれたか――任務の失敗を悟った兵治は、怒りはすれども臆しはしない。使命はあくまで情報を得て、生きたまま伊賀の国に帰ること。兵治は一瞬のうちに頭を切り替え、この窮地から脱する方策を計算し始めていた。

 眼前には、三人の男。腰を抜かしたか立ち上がろうともしない山名豊国。刀を抜いたまま、何か思惑があるのだろう傍観を決め込んだ様子の羽柴秀吉。そして、気炎を吐き、全身からどす黒い殺意の念を立ちのぼらせる、魔王。

 魔王が、腕を持ち上げた。巨大な毒蛇が牙を剥き、宙を這って襲い来る幻影が、兵治の瞳を侵食する。
 気圧され、恐怖心に屈してしまう前に、兵治は駆けだしていた。踵をかえし、障子戸の向こうに広がっている夜の空を目指して。

 伊賀十二人衆が兵治を重用するのは、その足の素早さからだ。一度動いた体はまさに颶風のごとく、その場すべての者の虚を衝いて、安土城の天守から逃げおおせようとしていた。

 しかるに――虚を衝いた者の心にこそ、さらに大きな隙が生じる。乱波の基本を、このとき、兵治は失念していた。

「…………!」

 滑り込むように眼前にあらわれた、細身の影。
 総身を包む暗紫の装束は、己のそれとひどく似ていた。同じ乱波か、と瞬間に兵治は悟る。素性は知れないが、関係ない。自らの前に立ちはだかる以上、男は敵であった。

 短刀を抜き、逆手に持ったまま駆け続ける。速度は落とさず、すれ違いざまに首を狙った。その刀さばきは正確、当たらぬ道理はない――が、

「おそきは、つみ」

 ぐるりと、世界が回る。

 兵治は、かすかな声を耳にした。ひどくゆったりとした、舌足らずな男の声。

 視界が、意識が、衝撃に揺れている。
 顎だ。男の掌底が、兵治の顎を捉えたのだ。顎先から脳天に突き抜ける痛み。下半身は前につんのめり、脚が宙に弧を描く。反対に頭は後ろへ弾かれ、走る勢いが削がれぬまま全身で一回転、顔から床に突っ込んだ。

「ぐ、うっ……!?」

 敵の一手が、まったく見えなかった。というよりも、何が起きたのか一瞬では理解できなかった。兵治は、だらりと下がった敵の両手にも注意を向けていた。わずかでも動きを見せようものなら対応できるという自負さえあった。にもかかわらず、一撃を食らった。なぜか?
 相手の腕は、確かにその位置から動かなかった。動かなかったが、同時に、兵治の顎に向かって跳ね上がっていた。

 腕が分裂したのだ。そうとしか見えなかった。

「おそきは、いたずらにいくさをながびかせる、のみ」

 男は悄然とつぶやく。半身を兵治に向け、顔は明後日を仰ぎながら。

「おそきゆえに、ならくに、おちる。いむべき、あしきけがれ。われらは、ならくより、はいあがりしゆえに、いむべきけがれ、を、はらわねば、ならぬ」

 ひどく不安定な影だった。そよ風に吹かれれば飛んでしまいそうな危うさが、暗紫の男には漂っていた。一方で、痩身からゆらゆらと立ち上る妖気、兵治の背筋に看過できぬ怖気を呼び起こすその気配、まさしく魔王のそれと同じではないか。

 敵の名を、兵治は知っていた。

「きさま――昏奈衆(くらなしゅう)か」

 伊賀の国に十二人衆があるように。
 魔王の下には、人智を超えた魔人どもが集うという。

 曰く、魔王の走狗。
 魔道の嬰児。
 忍び殺める影。

 奈落よりさかしまに生まれ出た、昏奈衆。

「よくやった、鴉黒丸(あくろまる)」

 魔王の声が遠く聞こえる。

 噂には聞いていたが、昏奈衆、初めてまみえる相手だ。底のうかがい知れぬ深淵のごとき気配、なるほど戦慄に値する。事実、先の一撃は兵治の戦意を完全に打ち砕いた。相手との力量の差をわずか一合で思い知らされるとは、半生で一度たりとも経験したことがなかった。手は震え、脚には力が入らず、目の焦点を定めることもおぼつかない。

 が、魔王の一声が、兵治の心を再燃させた。
 よくやった、とは、つまり決着がついたと判断されたのだ。それだけは見過ごせない。たとえ黒馬兵治という乱波ひとりが嘲られようと、伊賀の国まで舐められてなるものか。

「……まだ、だ」

 唯一折れなかった矜持が支えとなって、兵治は昏奈衆、鴉黒丸と対峙した。

 逆手に持った短刀を振るう。鴉黒丸は上体をちょいと反らして避ける。すかさず左の拳を突き出すが、上がった右腕が難なく防ぐ。
 直後、鴉黒丸の拳が兵治の顔とみぞおちを襲った。衝撃はやはり同時であった。右腕は兵治の拳を受け止めたままだ。速度の問題ではない。三本目の腕が生えてきたとしか思えなかった。

 動転する兵治めがけて、鴉黒丸の手刀が飛ぶ。喉元を狙った一手、兵治はとっさに受け止める。かと思えば、兵治の腕ははね上げられ、脇下に重い拳が幾度も刺さる。あばらが軋んだ。よろめいた兵治の側頭部に、鋭い蹴撃が襲い掛かった。反射的に腕を盾にする。そのときには、さらなる蹴りが、太腿と膝を強打していた。

 ひざまずき、激痛に脂汗を滲ませながら、それでも兵治は鴉黒丸を睨んだ。

「なんてひどい顔だ」

 鴉黒丸の背後から、魔王が歩み寄る。この上ない憐れみの表情を浮かべながら。

「悔しいのだな、可哀想に。だが、悪いのは、きみだ。きみたちが始めたことだ。わたしを怒らせた。するとどうなるか、きみたちは知っていたはずだ。そうだろう? だから、受け入れることだ。その悔しさを。逃れられない黄泉路を」

 脳が揺さぶられる。不気味な、心地のいい声だった。頭を垂れてしまいそうになる。駄目だ。屈してはならない。己が命を全うせよ。矜持が叫ぶ。命令を。いのちを。

 死ぬまで生き延びよ!

 兵治の袖口から切り札が滑り出る。手のひら大の球体を、鴉黒丸めがけて放り投げた。鴉黒丸の眼がぎょろりと捉える。

 火花を散らす球体――わずかな躊躇の色が、鴉黒丸の眼に差した。
 避ければ、後ろの魔王に被害が及ぶ。ならば、と判断したか、鴉黒丸は球体を平手で打ち返した。所詮は悪あがきか――と、もはや勝利を確信したらしい鴉黒丸の目元が、次の瞬間、はじめて動揺を見せた。

 鴉黒丸の眼前にせまる、にぶく光る切っ先。
 それは、一本のくない――囮の球体よりわずかに遅れて、兵治は本命のくないを投げていたのだ。

 鴉黒丸が指先でそれを止めたのは、もはや本能的な行動だったに違いない。くないの柄、輪に結び付けられた小さな筒に気付いたときには、すでに遅い。

「お――――」

 炸裂。火薬と鉄片が詰まった筒が、光と爆音を散らした。
 鴉黒丸の痩身が、もんどりうって倒れる。

 つかの間の静寂。
 山名豊国も、羽柴秀吉も、あの魔王ですら、我を失っていた。

 この好機を兵治は逃さない。踵を返し、悲鳴を上げる全身に鞭を打って、再度の遁走を試みる。わずかに開いた障子の隙間から、真冬の月が覗いていた。この大天守という穢土とは違う、澄み切った夜の空が。

 跳躍――総身で障子を突き破った。

 木と和紙のかけらが安土の空に舞い散る中、兵治の脳裏によぎったのは、若い時分に受けた厳しい修練、馬に引きずられながら一両日を走り続けた、遠い日の記憶だった。
 体力が尽き、馬力に引きずられたときの衝撃たるや、さながら骨と皮とが離れるようで――

「ぬ、おぉっ――!?」

 まさに回想とたがわぬ怪力が、兵治の首根っこを掴み、安土城の中に引き戻していたのである。
 背中から床に激しく叩き付けられ、呼気が詰まる。

 何者かが兵治の上にまたがり、首を絞めつけた。顔から黒い帯のようなものが垂れ下がり、兵治の視野をふさいでいる。馬か、あるいは熊かと紛うおそろしい力が、ぎりぎりと首の骨を圧迫していた。
 しかもどうやら片手らしい、と知れたのは、薄れゆく意識の中で相手の腕をつかんだからである。そして予想外に細い腕であったのも、死への恐怖とは別に、兵治の中に疑問を呼び起こした。

 この怪物じみた膂力、何者だ? 鴉黒丸か? それとも、また別の昏奈衆なのか?

 首をわずかに振ると、兵治の眼をふさいでいた黒い帯が、さらり、と流れる。

 ちがう。

「ぐ――、む――!」

 これは、帯ではない。
 黒く、長い、髪だ。

 暗闇に落ちてゆく中で兵治が耳にしたのは、「弱すぎる」という女の呟きと、自らの頸椎が砕けるあっけない音だった。


     ■


 伊賀者の命が潰えるその一部始終を見届けて、秀吉はただ立ち尽くすほかになかった。鴉黒丸と、新たに現れた昏奈衆、ふたりの尋常ならざる働きに、あらためて肝を冷やす。この戦の時代が、こやつらを生み出したのだ。

「待っていたよ、蛇喰(じゃばみ)」

 魔王が親しげにその名を呼ぶ。

 黒馬兵治の死体をつまらなそうに見下ろしていた長身の昏奈衆が、切れ長の目を魔王に向けた。

 やはり、声色のとおり、女であることは間違いない。胸の下まで届く長髪の陰で、淡泊ではあるが、どこか白百合を思わせる凛然とした面持ちが、無感動な色を浮かべたままうなずいた。
 この場にいる誰よりも背丈がある。六尺(180センチメートル)を軽く超えるだろう。だが何よりも異質なのは、やたらと布面積の少ない着物の下、確かに女体のふくらみを見せている肉体が、同じく隆起した巌のごとき筋骨をまとっていることだ。素肌を晒している腹などは、ごつごつと割れた筋肉が鋼鉄のうろこのように月光に映えている。

 異常なほど発達した肉体。蛇喰という昏奈衆の武器が、それであるらしい。

「いつにもまして見事な手際だった、蛇喰」
「大したことでは」

 さしたる感慨もないふうに、蛇喰は言った。

 魔王は満足げに微笑んでから、よろよろと立ち上がる鴉黒丸に呼びかける。

「どうしたことだい、鴉黒丸。きみともあろう者が、随分と痛手を食らったね」
「は……もうしわけ、ありませぬ」

 暗紫の忍び装束は、爆発によってぼろぼろだった。とはいえ、いかなる方法でしのいだか、身体は微々たる傷しか負っていないようである。むしろ伊賀者ごときにしてやられたことの方が、鴉黒丸の自尊心に深い傷を刻んだらしい。

 そんな彼を弁護したのは、「まーまー」という、鈴の転がるような軽快な女声。

 蛇喰ではない、第三の昏奈衆。

「そう責め立ててやっては、鴉黒丸が可哀想にござりまする、魔王様。この子はただ、わたくしめの言いつけを忠実に守ろうとしただけなのですから」

 しずしずとした足取りでやってきたのは、水干に烏帽子という奇妙な格好の女であった。古く平安の時代から、水干は男子の正装とされてきた。それを優雅に着こなすさまは、京の公家にも近しいものがあるが、むしろ怪しげな陰陽博士にしか見えない。

 そんな女が、鴉黒丸と蛇喰の前に進み出て、魔王に深々と一礼する。

「まずは、遅参のお詫びを。この者らの調整にひどくてこずってしまいまして。いぃやはや、申し訳ありませんでした。果心道人(かしんどうじん)、魔王様のお呼びたてにより、参上仕りましてございまする」

 やたらと丁寧な物腰で、そう名乗ったのである。

「いいや、時間ぴったりだ」と魔王。「まさか、秀吉や山名君の度肝を抜かすために、わざといままで待ち構えていたのではないだろうね?」
「あっはぁー、わたくしめにそんな一計を布ける脳みそがあるとでも? 買いかぶりすぎでございまするよ」

 ……なんなのだ、この女は。
 秀吉はきょとんと眼を丸くするしかない。

「鴉黒丸には、かの伊賀の乱波を捕らえるように命じたのでござります。蛇喰に捻りつぶされたとはいえ、魔王殿の居城に潜入するほどのわざは評価すべきでしょう。ぜひともひっ捕らえ、肉体から精神のすみずみまで紐解いてみたかったわけで……まあ、つまるところ、わたくしめの欲張りゆえに、鴉黒丸を傷つけてしまったわけなのです、はい」
「ふむ、確かに、命を取るならば最初にやっていたか」

 魔王は苦笑し、秀吉に向き直る。

「さて、少しばかり間が抜けてしまったが、あらためて紹介しよう。昏奈衆の頭領、果心道人だ。それから鴉黒丸と蛇喰、彼らの働きぶりはいま見てもらったとおりだよ」
「…………」

 秀吉は、言うべき言葉も見つからず、昏奈衆の面々を見た。

 自分の常識がぶち壊されたような気分だった。昏奈衆の存在は、かねてから耳に挟んでいた。魔王直接の指示に従う、影に潜む集団がいると。実物を目にしたのは、これがはじめてだ。あまりにも現実離れした存在感に、それこそ夢を見ているのではないかと、頬をつねりたいほどであった。

 魔王の片腕である秀吉ですら、その程度しか知らなかったのだ。ましてや、山名豊国などはいまだに現実を受け入れられないのだろう、ただ呆然自失といった様子で、魔王たちのやり取りを眺めている。そのまま気をやってしまわないだろうか、と秀吉が心配するほどに。

 こちらの困惑などお構いなく、果心道人は、ずいと距離を詰めてくる。

「やーやー、あなた様が羽柴の秀吉様でございますか。お初にお目にかかりまする。実に光栄なことです、これまで魔王様を支えてこられたと評判の御大将に、こうしてお会いできるだなんて」

 まん丸とした目が、きゅっと細くなる。薄い唇が、にゅっと吊り上がる。笑う果心道人の顔は、狐を連想させた。艶美な、人をあやかす化け狐。

「わたくしは、魔王様を陰から支える身……表舞台で大活躍の羽柴様とは、いわば表と裏の関係。きっと生涯、顔を合わせる機会などないものと諦めておりました。ううん、長生きはするものでござりますねぇ!」
「……それはそれは、結構なことだな」秀吉は、自分がどんな顔をしているのかわからぬまま、低く応えた。「長生きとは、しかし、おれの半分も生きてはおらんように見えるが」
「んああー、言葉がお上手で! なるほど、これはおねね様も苦労されまするねぇ」

 妻の名を呼ばれ、秀吉はぞっとしない気持ちになる。果心道人の舌に乗ることが、ひどく忌まわしいもののように思われた。人質に取られるとは、このような気分なのかもしれない。

 なんなのだ、この女は!

 いったいどういうつもりでこの魔人どもを呼んだのか。
 秀吉は、魔王に視線で問いただした。

「そう恐い顔をしないでくれ。これは、ひとつの妥協案だ」魔王は言った。「因幡の制圧は、去年に引き続いてきみに任せる。きみの思う大義を貫き通してみるといい。しかし、それはわたしの思惑とは大きく離れた道だ。きみが征く道は、わたしにとって狭く、そして険しすぎる。残念ながらわたしには、秀吉、きみほどの胆力がない」

 そこで、と魔王は昏奈衆を指さす。

「彼女らにも、同道してもらう。わたしの正義を体現する役を担ってもらうのさ」
「……なんだと?」
「きみはきみの戦をするんだ。昏奈衆は、きみの補佐役に過ぎない。しかし、きみの戦がわたしの道を荒らすような兆しが見えたときには、果心道人には前に出てもらう。その権限を与える」
「要するに、監視役か。おれが鳥取城を滅ぼすために」
「納得はしなくていい。理解をしてくれ。最善の手だと、わたしは思う。先の山名君の話にもあったとおり、この戦はかならず持久戦になる。要所要所の決断が、大局に多大な影響を及ぼす。いかなわが軍随一の智将であるきみとて、判断を誤り、あるいは敵の策にはまることもあるだろう。そうしたとき、助言を行う者が必要だ。きみが目指すべき世が、どのようなものであるのか、思い出させる役が。それが果心道人というわけさ」

「どうぞご安心を」狐めいた顔が怪しく歪む。「羽柴様の邪魔など決していたしません。お供するのは、わたくしとこの鴉黒丸、蛇喰、それからもうふたりほど……わずか五人の昏奈衆、微力を添えるに過ぎませんので」
「いや、もうひとり加えて、六人だ」

 魔王は豊国の肩に腕を回した。

「せ、拙者を――!?」

 豊国は、己のしでかしたことにようやく気付き始めたのか、全身を慄かせた。魔王に降伏したこと。鳥取城を裏切ったこと。家臣たちを殺める助言をしたこと。その決断が下す意味に、やっと思い至ったのだ。

 魔王が耳元に口を近づけたときには、後悔の念がその魂まで握りつぶした違いない。

「山名君、きみは敵に教えてやるんだ、わたしの歩む道を。たったいま、よくわかっただろうから、ね」

 そして魔王が、秀吉を見た。果心道人が、鴉黒丸が、蛇喰が、秀吉を見つめた。

 みな、同じ目をしていた。
 憂いの瞳。戦国の世を終わらせるまで、絶対に拭われぬ昏い闇がそこにあった。

 山名豊国が、その輪に加わって、秀吉に視線で訴えかけた。
 ここは地獄だ、と。

「――面白い」

 思いがけず、秀吉は破顔していた。

 己と対立する者に囲まれて、なおその信念を貫くために戦う――この構図、鳥取城の状況と同じではないか。主を追い出して立てこもることを決意したもののふ達に、妙な親近感さえ覚える。

 敵の立場がわかってこそ、真の意味で戦が成立する。昏奈衆の介入ははなはだ不本意だが、この相似関係、存分に利用してやる。

「いいだろう、昏奈衆。おれの戦に加わってもらう」
「ああ、まこと、まことにありがたきことでござります。なにとぞ、よろしく願い――」

 果心道人の言葉が終わる前に、秀吉は「ただし」と遮った。

 と、次の瞬間には、刀の鞘を果心道人の首筋に置いている。実に自然な動きに、鴉黒丸も蛇喰も反応できていない。

「……羽柴様、これはいったい?」
「万が一、おれの道理にも、ましてや殿の覇道にもおまえが不要だと知れたときには、その首をすっ刎ねる」
「あっはぁー、いやはや御冗談を」
「おれは本気だ。仕えるのは殿であって、おまえではない、果心」

 そうだろう、魔王殿?

 秀吉の威風に、魔王は小さく肩をすくめた。否定も肯定もしない、不干渉の立場。
 つまりは、秀吉と果心道人、どちらが上にもなりうるのだ。

「ふ、ふ……心得て、おきましょう」

 胡散臭い笑みは健在だったが、わずかに頬がひきつっていた。その動揺を見られただけでも、秀吉の腹は静まった。    
 

 そうとなれば、戦の準備をはじめなければ。なるべく犠牲を出すことなく、鳥取城を明け渡させる。そのためには乗り越えるべき障害が多かった。気勢をあげる鳥取城の兵士たち。なんとしても魔王の命令を遂行せんと目論む昏奈衆。秀吉の目指す戦を行うことは、極めて困難であろう。流してはならない血が流れる。死ななくてもよい命が散ってゆく。それでもなお、秀吉はその信念を貫かなければならなかった。

 それに――困難であればあるほど、俄然、燃えるのである。
 やはり、下克上の世が、おれには合っているのかもしれんな。

 時代を蝕む狂気の螺旋に、自分も片足を突っ込んでいるのだと悟り、皮肉な微笑を秀吉は浮かべたのであった。